山また山に山廻り
土曜日に国立能楽堂で「山姥」白頭を観ました。
シテは関根祥六師。
この山姥はいわゆる鬼女なのですが、鬼女物といわれる曲の中では少し異質です。能における鬼女は「葵上」「鉄輪」「道成寺」など嫉妬、恨み、執念などのために鬼と化したものが多いのですが、山姥の鬼女はちょっとかわいげがあるんですね。わかりやすく言えばこんな感じでしょうか。
『百万山姥という曲舞で有名な女がいるようだけど、私こそ曲舞で有名だったんだよー、なのに誰も自分のことを気にかけてくれないの。ええいっ! それならば日を暮れさせてこの女曲舞たちを私の庵に泊まらせてしまおう。ねえねえ百万山姥さん、なぜ私のことを気にかけてくれないの?さあ謡いなさい。そして私の舞を見なさい。私こそ本当の山姥よ、本当の山廻りってこういうものよ~』
恐れながらも百万山姥たちはあっけにとられたことでしょう。
厳しい上路越えの旅の途中に、いきなり日が暮れてしまうのですからオロオロしてしまいます。
ネットでいう「かまってちゃん」みたいな鬼女ですね。
ネットの「かまってちゃん」は嫌われますが、この鬼女はどこか憎めないです。
「愛すべきかまってちゃん」と言ったほうがいいかな。
・・・ある時は山賤の、
樵路に通う花の蔭、
休む重荷に肩を貸し、
月もろともに山を出で、
里まで送る折もあり・・・
この詩章からすれば、重い荷物を持った旅人にそっと肩を貸し里まで送ってくれるなど、とても親切な鬼女です。でも鬼女の姿はあくまでも仮の姿であって、普段は人間の目には見えません。山陰にひっそりと佇む霊のようなものと考えてもよいでしょう。
また次の詩章からは違う見方も考えられます。
・・・廻り廻りて、輪廻を離れぬ、
妄執の雲の、塵積もって、山姥となれる・・・
「山姥とは妄執の雲の塵が積もったもの」と言っています。
「妄執の雲」とは何でしょうか。
厳しい山廻りを人間の人生と考えれば、これは迷いながらも生きていかなければならない我々人間の姿と捉えることもできます。
いろいろな捉え方があると思いますが、それは見る人それぞれでよいと思います。
後半部分の迫力のある舞は、山廻りの厳しさを表すと共に、山の精としての神々しさを感じさせるものでした。
後シテの面は「山姥」で、この山姥の能のみに使います。とても品位のある面です。
~「山姥」あらすじ~
山姥の山めぐりの曲舞(くせまい)で有名になった都の遊女が居て、名も百万山姥と呼ばれていた。その遊女が男たちを連れて善光寺へ参る途中、越後の上路(あげろ)の山にかかると、日中なのに急に暗くなった。そこへ中年の女が現れ、自分は実は山姥だが、例の山姥の曲舞が聞きたくて日を暮れさせたのだと言って立ち去る(中入)。夜がふけるとまことの姿の山姥が現れ、遊女の謡う曲舞に合わせて舞った末(<クセ>)、本当の山めぐりのさまを見せ(<立廻リ>)、峰を伝い、谷を駆けて姿を消す(<ノリ地>)。
(注)
クセ(曲):
能の謡事小段の一種。中世の流行芸能である<曲舞くせまい>を取り入れたもので、七五調を基準とした叙事的韻文の楽曲。謡事の中でも長大な部類に属し、一曲の中心部分に位置する。
立廻リ:
舞台上を静かに動きまわる働事。
ノリ地:謡事の小段名。拍子合で、一字を一拍にあて、第一字が第二拍にあたるのを基準とする大ノリの謡による小段。神・鬼畜・精・幽霊など霊体の人物の登場直後や舞事の後などに多い。
―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―
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