昨日、国立能楽堂で行われた「万作を観る会」の感想など・・・
今回の公演は、能「姨捨」の間狂言の語りと同曲の仕舞、狂言が「昆布売」「鐘の音」「千切木」の三曲という構成。
いままで何度も同会の公演を拝見しているのですが、今回は万作師が人間国宝に認定されてから初めての「万作を観る会」。万作師の品格にふさわしい素晴らしいプログラムです。見る側にとっても何か身の引き締まる思いが致しました。
能「姨捨」の間狂言の語りと同曲の仕舞という企画は、恐らく今後もまず考えられませんから大変貴重な舞台を拝見させていただきました。
今回の舞台の素晴らしいところは、「語り」と「仕舞」の両方が演じられているところです。
これは万作師がよくおっしゃっている「能あっての狂言」という両者の深い関係の表れでしょう。
能を観ていると、どうしても能そのものに注目してしまいがち。間狂言の語りは物語の展開上重要であるにもかかわらず、次の場面へのつなぎのような役割としか考えない観客も多いと思います。
能のシテは現世の人間よりも、この世のものではない霊とか「山姥」のような山の精といった、人間を超越した人物が多く登場します。
そのため狂言師が現世の人間である観客との間に立ち、語りをすることによって、シテと観客との距離感を縮める役割を担っているのです。
この「姨捨」は、「檜垣」「関寺小町」と共に『三老女』として、能では最奥の曲とされています。
シテの演ずる「姨捨」の老女は、仲秋の名月のもとで舞をまう、月の精とでもいった幻想的で品格のある美しい老女です。
老いることは、宇宙や自然といった現実の世界を超越した世界に近づくこと。崇高な美しさを得ることにも等しいといった描かれ方です。
ところが、間狂言の語りでは、一転して残酷で現実的な話が語られます。
間語りの詞章はあまり表面に出ないものですが、今回いただいたパンフレットには詳細に載っておりました。
こうやって文字にしたものを改めて読むと、なんて残酷な物語なのでしょう。
間狂言では、盲目の老女が山に捨てられるに至った悲惨な物語を語るのですが、嫁姑の生々しい確執などを詞章のまま語るだけでは下品になります。
しかし、一方では観客に物語を正確に伝えるという役割も果たさなければなりません。
そこに間狂言の語り手として、最高の芸位に達した者しか表現できない難しさがあるのではないでしょうか。
万作師の穏やかな中にも気迫のこもったお声、そして時折鋭く光る眼光が、「老いること」の尊さと現実の悲惨さの両面を表しているかのようで、閑寂な舞台が師の品格を一層際立たせておりました。
続いての仕舞「姨捨」は野村四郎師。
もうこれはこの曲の仕舞を拝見することが出来ただけで貴重な体験といえるでしょう。
面も衣装もつけない仕舞という形式の中で、シテがいかにこの難しい曲の本質を表現することが出来るのか。また、それを我々観客がどれだけ受け止めることが出来るのか、そう問われているかのような緊張感がございました。
今回の公演は「姨捨」という人間の内面に問いかける演目が中心となっていたためか、狂言の演目は非常にわかりやすい、単純に楽しめるものばかりでした。
まずは「昆布売」。
昆布売は野村遼太くん、大名は石田幸雄師。
遼太くん高校二年生ですか。大きくなりましたね。
解説には新進狂言師とありましたから、もう遼太くんなんて呼べませんね。
若々しい伸びのあるお声で、身のこなしも美しい。
下克上の世相を反映している狂言ですが、その中にも大らかさを感じます。
次に「鐘の音」。
太郎冠者は万作師、主は私が大好きな万之介師。
鐘の音を擬音で表すところが見どころです。
太郎冠者役は若い狂言師が演じることも多いのかもしれませんが、万作師のようなベテランの狂言師が演じるのもまた味わい深いものです。
鐘といえば道成寺。
今年5月、宝生能楽堂で道成寺を観た時の寺男役のアイが野村万作師と野村万之介師でした。
真っ先にそのことを思い浮かべましたが、本当にお二人ともいいコンビです。
最後は「千切木」。
太郎は野村萬斎師です。
もうこれは単純に笑わせていただきました。
萬斎師はかっこいい役をやると決まりすぎてしまうので、私は太郎のような本当は弱虫なのだけれど強がっているだけの情けない男とか、「国盗人」の悪三郎のような悪のヒーロー役はとても魅力的に感じます。
狂言に出てくる女性は「わわしい女」(口やかましい、騒々しい、たくましいなどという意味)が多いのですが、太郎の妻もそのタイプ。
気の強い妻役は高野和憲師が演じられたのですが、萬斎師演ずる格好ばかりつける情けない夫との対比が非常に面白かったです。
妻が夫に対して仕返しに行くようにとしきりに煽るのですが、それは裏返せば夫を愛しているがために何とかしたいという妻の思いなのです。
「あぁ仲の良い夫婦なんだな・・・」
笑いの中にしみじみと深い愛情を感じました。
それにしても、当屋役の深田博治師の「留守っ!」の叫びには大爆笑でございました。
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~あらすじ~
◇姨捨(おばすて)
都の男が仲秋の名月を見ようと信濃の姨捨山に赴くと、中年の女に声を掛けられる。女は、ここは昔、老女が捨てられ、「わが心慰めかねつ更科や姨捨山に照る月を見て」と歌を詠んだ所だと明かして消えうせる(中入)。
夜になると、澄みわたる満月の光に照らされて、白髪の老女が姿を現す。老女は、月天子(がつてんし)は勢至菩薩と同体で阿弥陀如来の脇侍であると説き、極楽の有様を描き(<クセ> )、昔を懐かしんで舞を舞うが(<序之舞> )、やがて夜が明け、旅人が帰ったあとも、昔のようにひとり取り残されて立ち尽くす。
―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―
◇昆布売(こぶうり)
供を連れず、みずから太刀を持って出かけた大名が、通りかかった若狭の小浜の召しの昆布を売る商人(シテ)に声をかけ、同道を強いる。脅されて無理に太刀まで持たされ、従者扱いされた昆布売りは、やがて我慢ができなくなる。太刀を抜いて逆に大名を脅し、腰の小刀をとりあげて、昆布を売ることを強要する。その売り声も、小歌節や、平家節、浄瑠璃節、踊り節などでやるようにさまざまに注文をつける。大名は、教えられたとおりに懸命にやるが、昆布売りは太刀も小刀も奪って逃げ去る。
◇鐘の音(かねのね)
主人から鎌倉へいって金の値(かねのね)をきいてくるように命じられた太郎冠者(シテ)は、さっそく出かけ、寺々をまわって鐘の特徴を得々と報告すると、主人は怒り出し、冠者を追いだしてしまう。騒ぎを知った仲裁人が間に入って両者の言い分を聞き、冠者が鐘の音を聞きまわる様子を主人に演じてみせることになる。主人の機嫌を直そうと、冠者は謡いながら舞うが、結局主人に叱られる。和泉流では仲裁人が出ない。
◇千切木(ちぎりき)
連歌の会の頭(当番)にあたった男が、太郎冠者に会の仲間たちをよびにいかせる。皆は男の家に集まるが、そこへ仲間外れにされた太郎(シテ)がやってきて、なぜ誘ってくれなかったのかと文句をいう。さらに、花の生け方、掛け物の掛け方などに傍若無人に難癖をつけるので、怒った人々は太郎を打擲して放りだしてしまう。そのことを聞きつけた太郎の妻があわててかけつけ、しぶる太郎にむりやり棒を持たせ仕返しにいかせるが、どの家でも「留守」との返事である。すると、太郎は急に元気になり、棒をふり回して気勢を上げる。
―出典:『狂言ハンドブック』小林 責 監修 油谷光雄 編(三省堂)1995年―
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