2009年10月18日 (日)

袴狂言「釣狐」

今日は国立能楽堂の「万作を観る会」に行きました。メインの演目は袴狂言の「釣狐」。78歳になられた万作師にとって、もしかしたらこれが最後の「釣狐」になるかもしれないということで、観客である私も緊張感を持って拝見しました。

面や装束の力を借りない袴狂言は、ごまかしのきかない真剣勝負です。万作師は気力はまだまだ衰えてはいませんが、ご自身は体力的に限界を感じていらっしゃるようで、今回は後場を省略した舞台となりました。

しかし、前場も動きの激しいところもありましたが、年齢を感じさせないスピードとキレのある演技が続き、さすがに「釣狐」を極めた方だけのことがあると感服致しました。観客の方まで伝わってくる万作師の静かな息遣いを聞いていると、まさにそこには狐の白蔵主が佇んでいるかのようです。舞台で繰り広げられている真剣勝負がこちらまでビシバシと伝わってきました。

本来は息の乱れが観客に直に伝わってはいけないとご本人はおっしゃっていますが、息切れがしないようにするためには相当厳しいトレーニングが必要とのこと。激しくは無いけれど、静かな息遣いは見る側にとっては逆にリアルな狐を感じさせるものです。78歳であれだけの体力をお持ちなのはお若い頃からの鍛錬の賜物でしょう。本当に見ごたえのある演目でした。

猟師役である萬斎師の袴姿はいつ見ても美しい。ついついそのお姿に見とれてしまいます。それにしても、こうして同じ舞台上で狐を極めたお父上と共演できる萬斎師はお幸せな方ですね。萬斎師も今回の舞台で多くのことを学ばれたに違いありません。いつの日か万作師を越える狐を観たいものです。
他に「止動方角」等の演目がありました。

そういえば、能楽堂で国会議員の田中真紀子さんに遭遇しました。あの独特のダミ声が聞こえたのでふと見ると真紀子さん。これまで皇族の方と遭遇したことはありましたが政治家は初めて。真紀子さんって能楽がお好きだったのかしら?う~ん初耳だなぁ・・・
そういっては何ですが、普通のおばさんって感じです。政治家としての彼女は私の評価はものすごく低いので、もう国会議員を辞めて普通のおばさんに戻って欲しいと思いましたね。

Arisugawakame_2 これは有栖川宮記念公園の池にいた亀。
広尾に用事があったのでちょっと寄ってみました。爽やかで気持ちのいい日でしたね。
亀もマタ~リ甲羅干し。

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2009年9月21日 (月)

嫉妬が招いた悲劇

昨日は新国立劇場で「オテロ」を観ました。
いきなり冒頭シーンから大迫力。雷鳴轟く嵐の中繰り広げられる戦い、勝利し大歓声に迎えられオテロが帰港、祝宴では花火が次から次へと華麗に打ち上がり息もつかせぬ展開です。オーケストラ、合唱の力強さと相まって一気にオテロの世界に引き込まれました。音楽と演出の力でこれだけスケールの広い世界を描き出せるというのは凄いことです。

このお話の舞台は本来キプロス島なのですが、今回はヴェネツィアをイメージした舞台装置になっています。水路に見立てた部分には本物の水が張ってあり、その水を生かした演出が随所に見られなかなか効果的でした。
舞台はこの一面のみで、真ん中のオテロの家が場面に応じて回転するというシンプルなもの。しかし、それが非常に効果的に使われるため、単純さを感じさせません。

昔やはり一面だけの舞台を観たことがあるのですが、その時は照明の色を変えるだけという単純な演出でがっかりしたことがあります。チケット代がそれなりにお安かったので、舞台装置にまでお金をかけられなかったのだと思います。しかし、先日観たミラノ・スカラ座の「ドン・カルロ」もそれほど凝った装置ではなかったのに、単純さを感じさせなかったことを考えると、やはり演出家の腕次第なのかなとも思いました。

肝心のオペラの方ですが、音楽の専門的なことはわからないので感じたことだけ書きます。
この「オテロ」という作品はヴェルディ晩年の作品です。ヴェルディといえば、「椿姫」や「アイーダ」などが有名ですが、「オテロ」の初演は「アイーダ」の初演から16年も経っているのですね。「オテロ」と最後の作品「ファルスタッフ」はそういう意味でもちょっと異質な感じがします。「ファルスタッフ」も観ましたが、それほど印象に残っていないです。

私がオペラを深く聞き込んでいないからだと思いますが、「イル・トロヴァトーレ」や「アイーダ」の方が何度観ても好きです。ちなみにオペラに詳しい小泉元首相は「オテロ」も「ファルスタッフ」も好きではないそうです。『名声を確立した後より、その前の方が我々素人にとってはメロディーの美しい曲が多い。名声を得てしまうと、「俺の曲をわからなければいけない」「わからない人にはわからなくていい」という芸術家としての自負が強くなりすぎるのではないだろうか』と著書で語っています。(注*)

確かに、そんな感じはします。私はメロディーのわかりやすさといいますか、旋律美を求めてしまうので、「オテロ」は物語として、あるいは心理劇としては大変面白いのですが、音楽としてはそれほど印象に残らないのです。ヴェルディはこの作品で「歌うのではなく、語ってほしい」と歌手に求めたそうですが、もしかしたら音楽以上に人間の心を描くことを求めていたのかもしれません。

確かに、オテロ、デズデーモナ、イアーゴの三人を見ていると、人間が持っている様々な側面をそれぞれが象徴しているように見えます。

私が好きなのは主役のオテロではなく、悪の化身イアーゴ。今回イアーゴを演じたのはルチオ・ガッロさん。素晴らしかったですね。彼への拍手が一段と大きかったことを見てもそれは明らかだと思いました。「オテロ」の場合、この悪役がどれだけ人間のどす黒さを描けるかにかかっているでしょう。それによってオテロやデズデーモナとの対比がより際立つというものです。

ソプラノのタマール・イヴェーリさんの歌声は純潔で清らかなデズデーモナを良く表していたと思います。「柳の歌」はもの悲しく壊れそうなくらい繊細で、聞いていて胸が詰まりました。

それに対して、オテロという人物は私にとってはちょっと微妙です。非常に勇敢で力のある武人でありながら、性格的にはとても単純。騙されやすく、嫉妬深く、色々な意味でコンプレックスのかたまりのような人。「ちょっと妄想しすぎ、思い込みすぎ」って思うくらい。こういう人も苦手だなぁ。

イアーゴも嫉妬深いのだけれど、その気持ちを決して表面に出さないところが屈折しています。しかし、オテロとイアーゴは表裏一体のようなところがあって、人間の二面性を表しているように見えます。
オテロはムーア人。ムーア人とは回教徒である黒人です。そういう意味でもイアーゴとは黒人と白人、回教徒とキリスト教徒という相対する人物として描かれます。お互いに自分にはないものを持っていることが嫉妬の炎を燃え上がらせ悲劇となります。

話は違いますが、日本という国は他国から嫉妬されることはあっても、他国を嫉妬するという感情をほとんど持っていない幸せな国だといわれます。それが嫉妬する側にとっては無視されているようにも感じられ、より嫉妬するという悪循環に陥るらしい・・・

嫉妬とは厄介な感情ですが、たまには嫉妬する側の感情に思いやることも大事だなとこのオペラを見ながら思った次第です。

(注*)小泉純一郎『音楽遍歴』(日本経済新聞出版社)2008年より引用

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2009年9月13日 (日)

重いテーマと斬新な演出

今日は久しぶりにオペラを観に行きました。演目はミラノ・スカラ座の「ドン・カルロ」(東京文化会館)。
内容についてはオペラに詳しいブロガーさんが大勢いらっしゃいますので、そちらをお読みいただければと思います。

ハイテックな舞台演出に古典的な衣装が映えて素晴らしかったです。2003年にスカラ座が来日した際「マクベス」を観たのですが、その時の演出も斬新で印象的でした。今回と同様いわゆる現代風の読み替えではありません。

人間の心の葛藤や宗教が関わる重いテーマを描くためには、演出はかえって無機質でシンプルなものの方が良いのだと悟りました。日本のお能は究極のシンプルさだと思いますけどね。

オペラの内容ではないのですが、会場で出会った素敵なお嬢さんから公演プログラムを頂きました。簡単なお礼しか申し上げられなかったのが心残りです。
改めてこの場を借りてお礼申し上げます。

shine素敵な彼女に幸運が訪れますように!shine

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2009年9月 6日 (日)

演者が変われば趣も変わる

昨日国立能楽堂で行われた「ござる乃座42nd」に行って来ました。

3月に「観世清和・三郎太、野村萬斎・裕基、ダブル親子公演」を観ていましたので、今回の「蝸牛」は萬斎・裕基親子の山伏、太郎冠者の組み合わせとしては二度目でした。前回と異なるのは主が野村万之介師から遼太君に変わったことですね。3月の公演では観客の反応が非常に良かったので萬斎師も自信を深めたのでしょう。

同じ演目でも演者が変わると当然趣も変わります。太郎冠者がまだ幼い裕基君なのでより年齢の近い遼太君が主を務めたことにより、この組み合わせのほうが現実味があるのかなという気も致しました。

「蝸牛」はこれまで何度も観ているのですが、これだけ平均年齢の若い組み合わせはなく、無邪気で明るく表現されていたと思います。
また、遼太君、裕基君とも舞台の回数を重ねるごとに存在感が増しており、時として山伏役の萬斎師の存在を忘れてしまうほどでした。

この演目の面白さは色々あるのですが、最後に囃子物の楽しさに思わず主までもが引き込まれてしまうところは見どころです。

でんでんむしむし、でんでんむしむし、
雨も風も吹かぬに、出ざかま打ち割ろう

ノリの良いリズムは一度聞いたら忘れません。おおらかで楽しい気分にさせてくれる狂言です。

「月見座頭」は万作師の会で以前拝見したことがあるのですが、萬斎師の座頭は初めてです。上京の者は石田幸雄師でした。
虫の音、仲秋の名月、舞、謡、和歌と季節感あふれる風情と哀愁を帯びた演目です。昔なら座頭の役は還暦を過ぎたようなベテランの狂言師が演じるものだったそうです。萬斎師は43歳ですから相当若いですね。

また、この演目は万作師が鷺流の台本を中心に大蔵流も参考にしながら台本を作り再演を重ねてきたものです。そういった経緯もあり、ご子息の萬斎師としては初の座頭役を演じるに当たって相当な覚悟を持っていらっしゃったと思います。

確かに、若い萬斎師に枯れた味わいを出すのは難しかったと思いますが、万作師も若い頃から「川上」のシテなど難しい役柄に積極的に挑戦されていたので、萬斎師もどんどんやっていただきたいと思いました。何事も伝統にとらわれずに挑戦していく姿勢は野村家の家風だと思います。

前半の和やかな場面と異なり、後半は一転して世の中の不条理を感じさせられます。最後に座頭は「クッサメ」(くしゃみのこと)と発し去って行くのですが、この表現にこめられた思いは深いです。

人間の心の温かさと残酷さが表裏一体であること。この二面性を現実のものとして受け止めなければならないという心の葛藤もある。しかし、気持ちを切り替えて明日に向かって生きていかねばならない。そういった自分自身への区切りの意味もあるのかなと思いました。

最後の演目は狂言に詳しくない方にもおなじみの「附子」。
猛毒だといわれた附子の入った桶の番をさせられる太郎冠者と次郎冠者。実は桶の中身は黒砂糖でしたというお話。

この演目は何回上演したかわからないという万作師、万之介師のお二人が演じました。何度観ても新たな発見があり楽しめます。二人の冠者が苦し紛れの言い訳をする様は、現代人と違うところはありません。話の展開、笑いのツボがバランスよくできており、やはり人気の演目であると思いました。

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2009年6月28日 (日)

閻魔様でもだまされる

Mansai5 昨日は世田谷パブリックシアターで「狂言劇場」その六を観ました。
演目は「清水」、「博奕十王」と能楽囃子です。
演者は「清水」の太郎冠者が野村万作師、「博奕十王」の博奕打が野村萬斎師、他おなじみの野村ファミリーの皆様でした。

昨日の演目は面を使うものとして選ばれたもので、「清水」、「博奕十王」共、狂言独特のユニークな面が登場しました。

狂言の面は能の面と異なり大胆でユーモラスな面が多いように感じます。もちろん格調高いものもありますが、狂言の面の方が親しみやすいかもしれません。

狂言では普通の人間の演技は素顔(能狂言では直面(ひためん)という)で演じるので、面をつけるのは今回のように鬼や閻魔大王といった超現実的な者になります。

能では幽霊や鬼は非常に恐れ多い者として表現されることがほとんどですが、狂言ではどこか滑稽で間が抜けた者として登場するため、より現実の人間に近い感覚で捉えられます。

あの恐ろしい閻魔大王がペテン師である博奕打にまんまとだまされるところなどは思わず笑ってしまうと同時に素直な閻魔様がかわいそうになってきます。面がユニークであることがおかしさを倍増しているようにも思えました。

サイコロ賭博で閻魔様は「目は一にせう」と言ってあくまで一の目が出るのにこだわりますが、最初からサイコロには一の目が無いイカサマ賭博なのですから勝てるわけがありません。

萬斎師演ずる博奕打が飄々としているだけに、だまされているとも知らず持ち物すべてを剥ぎ取られるまで賭け続ける閻魔様たちが哀れというか滑稽というか・・・

まぁ現実の社会でも萬斎師のような素敵な方が詐欺師だったら素直にだまされてしまうんでしょうね。

閻魔様でさえだまされるのですから人間が賭け事にのめり込むのも無理はありません。
それにしても閻魔大王はじめ鬼たちは愛嬌があってかわいらしかったです。

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2009年5月24日 (日)

少年のような老武者

昨年、能、演劇、書籍で様々な「実盛」を体験して以来、老武者実盛の魅力にはまってしまい、また観たいものだと思っていたところ、昨日は幸いにも友枝昭世師の「実盛」を観ることができました。

お能は「退屈だ、面白くない」と思う方の多くは、恐らくストーリー展開が単純だったり、逆に難解でよくわからなかったり、延々と舞の場面が続いたりということが原因だと思うのですが、この「実盛」は2時間にも及ぶ大曲にもかかわらず飽きさせません。

遊行上人の前に思わせぶりに登場するところ、華やかな合戦の場面、討ち死にに至るところ、黒髪が水に流されみるみる白髪に変わっていくさま(もちろん、型だけですが)など、多くの見せ場がありますし、視覚的にも錦の直垂姿は美しいです。

実盛がどうして魅力的なのかというと、73歳にもなる老武者なのにどこか健気なところがあるからでしょうか。
白髪を黒髪に染めて合戦に臨むところや平宗盛に赤地の錦の直垂を所望するところなど、老武者として侮られたくない、雑兵の手にかかることだけは避けたい、できれば位の高いものと戦って死にたいという気持ちがあったのでしょう。その気持ちは痛々しいほどわかりますし健気です。

老武者としての渋さを前面に出してその魅力だけを表現することも可能なのに、老練な武者というより、どこか少年のような純粋さを感じさせるところが実盛の魅力だと思います。「かわいげがある」という感じでしょうか。
現実の社会でも、まれに実盛のようなご高齢の男性にお目にかかることがありますが、とても素敵ですよ。

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2009年5月 3日 (日)

六道を巡る物語

昨日観た舞台は「六道輪廻」というものです。なかなか一言で説明するのは難しいので、パンフレットに書かれている本願寺法主、大谷暢順氏のご挨拶から引用します。

―――舞台は、「迷い」から抜け出すことのできない人間たちが六道を流転する内容で、人間の持つ業を古典芸能の手法と、現代劇の技法を交えて幻想的、且つ、雄大に描かれます。―――

と書いても、さっぱりわかないでしょう。こういう劇はストーリーが一応はあるものの、舞台を観ている一人一人の受け止め方は大きく異なってくるものだと思います。

天上界の長ヴァイセーシャ(麻美れいさん)と修羅界の戦士ユッダ(野村萬斎さん)との戦いが中心でしたが、とても深みのある物語でした。楽しむというよりも考えさせられるところが多かったです。

恐らく、舞台で繰り広げられる物語に、自分の人生や亡くなった人も含めこれまでに出会った人々を投影することによって、どこかとても懐かしい気持ち、感謝の気持ちを持ったからだと思います。

この劇の主題となっている六道というのは、迷界の分類で、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天上」です。この六道は常に輪廻して容易に離脱することができないものとされています。

そのため昔から六道で苦しみを受けている有様が絵や彫刻に残っているのですね。
餓鬼道の絵ではみなお腹が異常に膨れ、気味の悪い姿が描かれていますが、舞台にも実際に登場します。かなり不気味で、夢に出てきたらうなされそう・・・

「人間界」や「天上界」は何となく悪くないような気がしますが、「人間界」には天災や人災がありますし、「天上界」にいたとしてもいつか衰退し死を迎え、他の劣った世界へと落ちていきます。

萬斎さんの演ずるユッダは興福寺の阿修羅像というイメージ。見方を変えればパンクロッカーといってもいいかも。髪の毛爆発してましたからね~
修羅道は常に帝釈天と闘争しているからか、戦うために生まれてきたというイメージをよく表していましたね。
また、舞台で生首を見るのもオペラのサロメやトゥーランドットで経験済みでしたが、ユッダはよくできていました。萬斎さん本人に摩り替わるところなんかなかなかよかったです。

それに対して麻実さん演ずるヴァイセーシャは気品と風格のある天上人という感じ。
麻実さんのことはよく存じ上げないのですが、さすが元宝塚トップスターだけあります。舞台に立った瞬間、すべてを支配してしまうような存在感はさすが。
セリフや身のこなしも堂々としたもので、鍛え抜かれた舞台人という印象を受けました。ある意味萬斎さんを圧倒していたような感じで、とにかくカッコいい!すっかりファンになってしまいました。

野村万作さん演ずるサンサーラ・(閻魔さまは愛嬌がありました)、若村麻由美さん演ずるメイユレー、石田幸雄さん演ずるサットバ等々が複雑に絡み合い、多くの物語が盛り沢山のストーリーでした。

Machimura3なぜかマッチーからお花が届いていましたよ。

どういう関係かしら?

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2009年4月25日 (土)

古典と新作

昨日は国立能楽堂で行われた「狂言の会」に行きました。
私の場合、狂言の会というと大抵野村万作・萬斎両師の会に行くことが多いので、流派の違う狂言師の皆さんの舞台を一度に観ることはなかなかありません。

演目は「墨塗」、「梅の木」、「楽阿彌」、それに素囃子の「序の舞」。
中でも注目は「梅の木」でしょう。これは詩人である高橋睦郎氏の新作狂言で、今回上演されたのは野村萬斎師が演出したものです。

実は能でも狂言でも新作ものというとなじみが無いということで、これまで積極的に観ようという気持ちにはなれなかったのですが、今回、萬斎師の演出に惹かれて観ることになりました。

新作ものを決して敬遠していたわけではないのですが、どうもオペラの読み替えの印象を勝手に持ってしまって遠慮していました。

オペラの読み替えは原作の時代設定を現代に置き換えた演出のこと。古典的な中世ヨーロッパの衣装ではなく、主人公たちがスーツで登場するといった具合。歌詞の内容もメロディーも変わるわけではないのですが、受ける印象が原作とまったく異なってしまうので好きではありません。

作品によっては、演出家の哲学的な解釈とも取れる場面もあり、観客側としては意味不明の場合もあります。オペラ好きの小泉元首相も御著書の中で『舞台を現代に置き換えたりする〝読み替え〟演出はあまり好きではない』とおっしゃっています。

しかし、この新作狂言はそんな心配は無用でした。ストーリーは狂言らしく人間同士のふれあいを温かく描いたもので、「これが新作狂言?」と疑問に思うほど素直でほのぼのとした作品でした。

萬斎師は演出家としても有能で、様々な新しい試みに挑戦されていますが、彼の土台はあくまで狂言という古典の世界。その揺るぎない世界を持っているからこそ新しい試みにも不安を感じさせないのでしょう。

古典がいつの世でも愛されるのは、何百年もの時を経て、無駄なものが削ぎ落とされ、ひとつの型として確立した芸術になっているところだと思います。かつて「何も足さない、何も引かない」という名コピーがありましたが、古典とはそういうものです。

新作ものに不安を感じるのは、「観客の受けを狙ってわざとらしい演出をするのではないか」というところ。たとえそういう演出で観客が笑ったとしても、それは薄っぺらな笑いで何百年も受け継がれていく笑いではないでしょう。

萬斎師の新作狂言としての演出が突飛な印象を与えないのも、古典への畏敬の念を持ち、何よりも言葉を大事に考えているからではないでしょうか。狂言の命であるセリフを言霊として捉えることにより、単なる喜劇として描かないこと。それが人間味あふれる笑いにつながるのだと思います。

もちろん、古典であっても「蝸牛」のように思わず笑ってしまう作品もありますが、どこかほのぼのとした温かみのある笑いが生まれます。おろかな人間を嘲笑して突き放すのではなく、一生懸命な主人公の姿にいつしか許容の心が生まれクスリと笑ってしまう。そこが狂言の持つ魅力だと思います。

さて、「梅の木」のあらすじですが、「借金の取り立てにきた有徳人(石田幸雄師)を耕作人(萬斎師)は、梅の木になりすましておだて、借用書を破り捨てさせる」というものです。

梅の木を演じた野村裕基君のかわいらしかったこと!
このところ立て続けにお父様とご一緒の舞台を拝見していますが、舞台人としての成長の速さは年齢を超えています。万作・萬斎親子の「二人袴」はとても楽しみでしたが、萬斎・裕基親子の聟狂言を観られる日が今から楽しみです。

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2009年3月21日 (土)

狂言の奥深さ

昨日の「ござるの座41th」(国立能楽堂)の感想など・・・
演目は『成上り』『八句連歌』『牛盗人』です。

狂言というと一般的にはゲラゲラと笑える面白い演目が多いように思われますが、実はとてもバラエティに富んでいて哀愁を帯びたもの、笑いの中に社会の問題を問いかけるものなど様々なストーリーがあります。

野村萬斎師はそういった多くの演目の中から毎回テーマを選んで公演を構成して下さいます。その演目の組み合わせが素晴らしい。初めての演目を観る楽しみはもちろんのことですが、狂言が単なる笑いで終わらない、非常に奥深い世界であることを毎回教えられます。

今回は、いわゆる狂言らしい笑いの演目は『成上り』だけで、『八句連歌』『牛盗人』は人と人、親と子の関係の奥深さを感じさせるものだったと思います。しかも『成上り』も単なる笑いで終わってはいません。

太郎冠者は太刀が青竹にすりかえられてしまったことをなんとかごまかそうと、嫁が姑に成り上がるといったとぼけた言い訳ばかりするのですが、どこか身につまされます。こういった失敗は日常生活で誰にも起こりえること。太郎冠者の境遇・立場がいつ自分の身に起こらないとは限りません。

そう考えると身分の低い太郎冠者に降りかかった不幸を単純に笑えるのか、という気持ちになります。上から目線の笑いではなく、相手を許すことのできる笑いとでも言ったらよいでしょうか。いつしか温かい気持ちになります。人間味あふれる太郎冠者を演じたのは石田幸雄師でした。

『八句連歌』では連歌の駆け引きの演技がみどころです。何某を野村万作師、貧者を野村萬斎師親子が演じられました。
「花盛り~」の発句がいかにも春らしいですね。言葉遊びの面白さは狂言でもしばしば見られますが、この演目は駄洒落のような単純なものではありません。それは言葉の洒落がわかる二人だからこそ成り立つものだからです。

借金を返せない言い訳と貸主側の催促が連歌の応酬として描かれ、二人の機知とユーモアに富んだやり取りが何とも優雅。「金を返せ」「いや返せない」といった本来の趣旨をいつの間にか忘れてしまいそうです。とげとげしい雰囲気にならない理由は、言葉の端々にお互いを思いやる気持ちが織り込まれ、何とも温かみのある印象を演出してくれるからでしょう。このような人間模様や人生の喜怒哀楽を感じることができるのも狂言の魅力ではないでしょうか。

『牛盗人』は親子の絆の強さを感じさせられました。先日、観世清和・三郎太、野村萬斎・裕基、ダブル親子の公演を観たばかりなので、不思議な縁を感じます。この作品では子方が非常に重要な役ですが、萬斎師のご子息、裕基君が見事に演じられました。もちろん父親役の藤吾三郎は萬斎師です。

「息・裕基が子方を勤められるのもあと二、三年だと思いますし、このたび取り組ませて頂くことに致しました」と萬斎師がおっしゃっているように、萬斎親子の貴重な舞台を拝見できて非常に嬉しく思いました。裕基君の背筋をピンと伸ばした正座姿や大きく明晰な発声はちびっこ萬斎そのもの(笑)。とても将来が楽しみです。

この演目は狂言の中でも演劇性が強いといってよいかもしれません。狂言は一般的にセリフ劇とも言われますが、この演目は心理劇の要素も含まれます。最後に三郎が喜びの舞を舞う場面もあり、変化に富んで観るものを飽きさせません。親子の情に奉行(野村万之介師)ももらい泣きするなど、人情味あふれる作品です。

萬斎師が舞いに使った扇は美しい桜の絵柄でした。
『八句連歌』の発句といい扇の柄といい、萬斎師の季節感に心を配った演目選定にはいつも感心します。伝統芸能の世界では当たり前のことなのかもしれませんが、桜の季節には特に日本の美しさを再認識させられます。

◇『成上り』(なりあがり)あらすじ
主人と太郎冠者は、清水(和泉流では鞍馬)へ参詣に出かけて通夜(おこもり)をするが、そのすきにすっぱ(騙り者)が、冠者の抱えた主人の太刀を青竹にすりかえて逃げ去る。目を覚ました冠者は、太刀が青竹に成り上がったと主人に報告し、失態をごまかそうとするが、叱られてしまう。和泉流ではこのあと、二人はすっぱを待ち伏せして捕らえるが、冠者はすっぱを縛る縄をおもむろに綯いはじめ、最後はまちがえて主人を縛ってしまい、すっぱに逃げられる。

◇『八句連歌』(はちくれんが)あらすじ
借金をなかなか返さない男の家に貸し手が催促にいき、自宅に連れ帰って返済を迫る。男が話をはぐらかしているうちに、表八句の連歌をすることになり、「御免あれかし」「済せや」などと、貸し借りの駆け引きを巧みに句に詠みこみあう。最後に、感じ入った貸し手が「あまり慕へば文をこそやれ」と付け、証文を男に返してやる。

◇『牛盗人』(うしぬすびと)あらすじ
法皇の牛が盗まれた。犯人を訴え出た者に褒美を与えるとの高札をみた少年の訴えで、兵庫三郎(*1)が逮捕される。少年は実は三郎の子で、褒美に父の助命を求め、他人の訴えで父が処刑されぬように自分が訴えたという。三郎は感激し、奉行ももらい泣きして三郎を許す。三郎が喜びの舞を舞う。

出典:小林 責 監修 油谷光雄 編『狂言ハンドブック』三省堂、1995年

(*1)別名もある。今回は藤吾三郎。

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2009年2月14日 (土)

福をいただきました

今日は新宿の全労災ホール/スペース・ゼロで「新宿狂言」を観ました。
演目は「呂蓮」と「木六駄」です。
また全労災ホール/スペース・ゼロの20周年ということで最初に「福の神」のさわりの部分をやっていただき、来場者の皆様と共に大きな福をいただきました。

木六駄では実際には舞台に登場しない牛を、あたかもそこにいるかのように演じなくてはならないのですが、野村萬斎師演じる太郎冠者は力のこもった演技で素晴らしい牛追いを表現していました。

舞台は能楽堂ではないので、大きな空間を生かした様々な演出がなされており、単に能楽堂で観ている時よりもわかりやすい構成になっていましたが、さすがに牛までは登場しないので、ここは演技力が問われるところなのでしょうね。

能楽堂で演じる古典の型に、新しい演出を少し加えるだけでとても新鮮な感じが致します。常に新しい試みに挑戦されている萬斎師の才能にはいつも驚かされます。もちろん、それは他の演者の方々の演技の質の高さがあるからこそ十分に生かされているのだということも改めて感じました。

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2008年10月26日 (日)

今日は横浜

昨日に引き続きウィーン国立歌劇場、小澤征爾氏指揮「フィデリオ」鑑賞。
小澤さん、体調を崩されて入院などなさっていたので、ちょっと心配していましたが、全然そんな気配など見せないくらいお元気で安心しました。「レオノーレ序曲第3番」なんて感動ものでしたよ。
主人公が男装して夫を監獄から救出するという設定がちょっと現実的ではないのだけれど、能楽でも「これはこういうもの」というお約束があるように、そういう前提で見るものなんでしょうね。オペラって結構男装の麗人が出てくるパターンが多いなぁ。
神奈川県民ホールって山下公園の前なんです。海を見ながら散歩して、中華街に行ったり、ホテルでお食事したりして楽しんできました♪~

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2008年10月25日 (土)

今週も舞台鑑賞

ここ数年、10月になると観劇の予定が重なってしまってほとんど週末は出かけています。
というわけで今日はウィーン国立歌劇場日本公演に行ってきました。演目は「コシ・ファン・トゥッテ」。とても楽しくて明るいオペラでした。何か、こういう話は新作狂言に使えそうだな、なんて思ったり…
指揮者のリッカルド・ムーティ氏は「コシ~」が一番好きなオペラだそうです。単純に見えるストーリーですが、そこから人間の本質を読み取ることができればよかったのですけどね。あまり深く考えないで見てました。
演出は私の苦手な読み替えではなく、古典的で美しい演出で、当時のナポリの文化を感じさせるものでした。またバルバラ・フリットリさんとアンゲリカ・キルヒシュラーガーさんのお二人が、歌声もさることながら美しさもたいへんなもので、舞台全体が絵画のようでしたね。
明日は小澤征爾音楽監督が率いるウィーン国立歌劇場としては最後の?来日公演を見る予定。

話は変わりますが、今日初めてクリスピー・クリーム・ドーナツを食べました。結構甘いですね。
しかし、あのふわふわした食感は(・∀・)イイ!

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2008年10月19日 (日)

万作を観る会 喜寿記念公演

「万作を観る会 喜寿記念公演」を観ました。
演目は狂言「蝸牛」、仕舞「笠之段」、狂言「仁王」、能「船弁慶」でした。
狂言「蝸牛」は非常に有名な演目で何度も観てはいるのですが、演者が変わること、そしてそれが野村家を継いでいく万作師の二人のお孫さんである遼太君、祐基君の若々しい演技によって、これほどまでに印象が変わるものなのかと改めて驚きました。
若い二人が演じている間、後方に控える主役の萬斎師、後見役の万作師の厳しくも暖かい眼差しが印象的でした。

狂言「仁王」は、生身の人間が仁王像に化ける面白さがみどころです。仁王は萬斎師が演じられたのですが、長時間仁王の形相で静止しているのはかなり大変だったのではないでしょうか。ありえない馬鹿馬鹿しさを真面目に演ずるところ、また観る側の私達も見物人として笑って参加してしまうところが狂言らしいです。万之介師演じる足の不自由な参詣人が最後に偽の仁王だと見抜くのですが、いつもながら万之介師のとぼけた味わいのある演技に感心してしまいました。

能「船弁慶」、これは万作師の喜寿を祝うにふさわしい豪華キャストでしたね。
前シテ 観世清和師、後シテ 観世銕之丞師、ワキ 宝生閑師 子方は観世清和師の子息である三郎太君など・・・
そしてなんといっても注目は今日の主役、アイの野村万作師でしょう。
この演目でのアイは、単なる物語の説明役ではなく、登場人物の一人として大変重要な役どころです。船頭としての見せ場も多く大活躍します。
とにかく驚いたのは万作師が大変エネルギッシュなこと。出船のため橋掛かりから舞台まで船を抱えて全力疾走してくるのですが、その素早いこと!
喜寿のお祝いですから77歳じゃないですか。普通人の77歳とは比べ物にならないほどお若いです。それだけ舞台で鍛えていらっしゃるのでしょう。
もうひとつとても感動したことがありました。
今日は脇正面の橋掛かり近くの席から観ていたのですが、前シテの観世清和師演ずる静御前が義経との別れを惜しんで橋掛かりで泣き伏す場面がありました。それがまさに私の目の前と言う感じの場所だったんです。
清和師はおそらく若女だと思うのですが、非常に古そうな由緒ありそうな面をつけていらっしゃいました。私はすっかりその素晴らしさに見とれてしまっていたのですが、そこで師は手で涙を抑える(シオリ)という所作を行いました。
その時、静御前の面が単なるお面ではなく、まさに生きて泣いている女性の顔に見えたのです。私がまるで義経で、私に向かってはらはらと涙を流しているような、本当に胸を打たれる場面でした。
一応私もそれなりにお能を観てきたつもりですが、生きている面を感じたのは初めてです。何とも不思議な、異次元の空間に連れて行かれたような感じでした。こうした感覚は演者の力によるものなんでしょうね。そうそう体験できるものではないと思います。
後シテは一転して観世銕之丞師演ずる平知盛の勇壮な動の世界に切り替わります。この演目は場面転換の面白さなど見せ場が多いので人気曲なのでしょう。

最近は政治家の世襲が話題になりましたが、こうした伝統芸能の世界は一子相伝という言葉の通り、そうしてこなければ今日まで伝えることができなかった秘伝が各家にはあるのだと思います。今日は野村万作家の秘伝を堪能致しました。
そうそう、何だか今日は野村萬斎師が一段と貫禄がついたように見えました。「次の野村家を背負っていくのは私だ!」という気迫を感じましたよ。

あらすじは「仁王」と「船弁慶」だけ載せておきますね。

◇狂言『仁王』(におう)あらすじ
負けつづけの博奕打(シテ)、国もとにいられなくなり仲間(アドの博奕打。和泉流は目をかけてくれる知人・何某)を訪ねる。仲間は博奕打に扮装させ、仁王が天くだったと触れまわり、信心深い人たちから供え物をだまし取ろうと提案する。博奕打が仁王の相と構えを作っていると、仲間は大勢の参詣人を連れてきて、それぞれが願をかけ布施を供える。しかし足の不自由な男(アドの男)が、霊力で足を直そうと大わらじを供え、仁王の体をなでまわす。仁王の相が変わるので参詣人たち(和泉は男ひとり)は偽者と気づき、試みに仁王をくすぐると仁王はたまらずに逃げ出す。

◇能『船弁慶』(ふなべんけい)あらすじ
源義経は、兄頼朝との不和から都落ちをするはめになり、武蔵坊弁慶ら小人数を連れて西国に向かう。途中、摂津の大物(だいもつ)浦の船宿で、あとを慕ってきた静御前をさとし、都へ帰らせることにする。静は義経の前途の幸を祈って舞を舞い、涙ながらに立ち去る(中入)。海上に出てしばらくすると、にわかに暴風になり、船頭の努力もむなしく船が波にもまれるうちに、平家の怨霊が沖に浮かび出る。中でも知盛の怨霊は薙刀をふるって襲い掛かってくるが、弁慶の祈りの力に負けて退散する。

出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年

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2008年10月 4日 (土)

「希望」は毎日死ぬ

今日は新国立劇場で「トゥーランドット」を観ました。トゥーランドットは5、6年前にエヴァ・マルトンのを観て以来久しぶり。マルトンのトゥーランドット、ホセ・カレーラスのカラフのCDは昔よく聞きました。
静香姐さんの金メダル以来、この演目は異常に有名になってしまったので、逆にあまり観に行こうという気が起こらなかったんですが、たまたま今回、新国の会員予約で安い席が抽選で当たったので行ってきました。初めて4階席に行ったのですが、やはり難点が・・・
1列目だったのですが、手すりが視界に入るので舞台の前の方が観づらいんです。身を乗り出して観ると後ろの席の方に迷惑になるので、一生懸命背筋をピーンと伸ばして観ていたのですが、それでも観づらい。
オペラが始まる前に係りの方がわざわざ「お身を乗り出さないようお願い致します」なんて言いに来たんですが、『なるほど、こういう欠陥があったからなんだ』と気がつきました。
ご年配の小柄なご婦人など本当に見づらいようで、思わず身を乗り出してしまって後ろの方から注意されていたり・・・ちょっと気の毒でした。
あれは設計が悪いと思う。少なくとも手すりは工夫すべき。東京文化会館などは上の方の席でも視界を遮るものは無いもの。
3時間ほど背筋を伸ばしっぱなしで観ていたので、それだけでドッと疲れてしまいました。もちろん、内容は良かったです。特にリュー役の浜田理恵さんが素晴らしかったと思います。私は専門的なことはわからないのですが、とても張りのある声で力強さを感じました。カラフ(ヴァルテル・フラッカーロ氏)の歌う「誰も寝てはならぬ」はやはり大拍手。盛り上がりましたね。
ひとつ気になったのですが、なぜ最後に現代風の衣装に変わってしまう演出をしたんでしょう?私は保守的なのかもしれませんが、古典的なスタイルの演出が好きなので、最後まで中国風の衣装で通して欲しかったなぁ、なんて思ってしまいました。
ところで、プログラムを読んで初めて知ったのですが、トゥーランドットとリューにはそれぞれモデルとされる女性がいたんですね。しかもそれがプッチーニの奥さんと小間使いの女性だったというので驚き。
小間使いドーリアはプッチーニの妻エルヴィーラからあらぬ疑いをかけられ、自殺へと追い込まれたそう。プッチーニはこの小間使いを大変愛していて、非常に哀れに思っていたそうです。
平気で首をはねる残忍なトゥーランドット姫にされてしまった奥さんも迷惑な話なんですが、最後は愛に目覚めるところで救われますね。
有名なシーンとしては、第2幕で姫が三つの謎を出してカラフが解いていくところ。
第一の謎として
「闇夜に舞う虹色の幻、世界中が求め、夜毎に生まれ、毎日死ぬものは何か?」
それは「希望」。
この言葉がとても印象的でした。

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2008年9月28日 (日)

狂言鑑賞と永田町散歩

Nougakudou1 夏の暑さから比べると、今日は曇っていたとはいえ気温は低く過ごしやすい季節になってきました。
秋といえば芸術の秋ですね。というわけで今日は国立能楽堂で行われた野村萬斎師主催「狂言ござる乃座」の記念すべき40回目の公演に行ってきました。演目は「咲嘩」、「歌仙」、それに素囃子「盤渉楽」です。

まずは「咲嘩」。
咲嘩というのは盗人なのですが、狂言によく登場する「すっぱ」と呼ばれる詐欺師のようなものですね。こういった役柄といったら万之介師の出番です。なんともとぼけた感じが良いです。今も昔も詐欺師は横行していますが、騙される側がいつしか騙す側を翻弄してしまうところがみどころです。
振り込め詐欺師も、最後は自分が騙されていた、って結末になったら拍手喝采なんでしょうけどね。現実はなかなか太郎冠者のようにはいかないものです。太郎冠者は、一生懸命やればやるほど主人の意図とはかけ離れた行動になってしまうことに気がつかない。太郎冠者役の萬斎師は、そうした田舎者の滑稽さをさらりと演じていました。

素囃子に続き「歌仙」。
この演目は初見でしたが、見ごたえがありました。
まず、登場人物が華やかであること。彼らが身にまとう装束がそれぞれ個性的で美しいこと。舞台上で立ち回りがあり豪快であること。六歌仙が絵馬から抜け出すという着想なので、全体的に絵画のような雰囲気を持った舞台であることなどみどころは多いです。

僧正遍照と小野小町が怪しい仲というのは面白い発想で、他の歌仙たちが二人の仲を嫉妬する様子もおかしい。
ところで、僧正遍照が萬斎師というのは配役的にはどうなんだろう?
僧侶姿の萬斎師はあまりにかっこよすぎて、これじゃあ小野小町が惚れるのも無理は無いという雰囲気。ギャップを楽しむということだったら、メタボなおっさんの僧正遍照でも良かったんじゃないか、なんて萬斎師の美しいお顔とお姿を見ながら思ってしまいました(笑)
まぁ、僧正遍照って解説を読むと色好みの逸話で知られている方だそうですから、それなりに魅力的なお坊さんだったのかな・・・
それに絶世の美女といわれた小野小町も狂言では乙の面をつけてますから笑えます。乙の面って「おかめ、ひょっとこ」の「おかめ」さんの顔を想像してくれればいいです。
この狂言は難しいことなど考えずに、素直に見て楽しむ狂言だと思いました。

ところで、国立能楽堂も早いもので開場二十周年を迎えました。写真は正面玄関の様子です。

Kokkai1_3能楽堂を出てから時間があったので久しぶりに永田町へ。
別に用事があったわけではないのですが、小泉元首相が引退宣言をされたということで、改めて国会周辺を散策してみたくなりました。日曜日だったので人影もまばらで静まり返っていましたね。

国会議事堂をのんびり一周してきたのですが、小泉時代を振り返っていろいろなことを思い出してしまい、ちょっと寂しい気分になってしまいました。

Kantei2 小泉さんを評価する人も批判する人もそれぞれいらっしゃるかとは思いますが、5年5ヶ月この国のために尽くしてくれたことには心から感謝したいと思います。国会議事堂に向かって心の中で『ありがとうございました』と申し上げました。

また、総理官邸ですが、新しい官邸ができた時から比べると、木々がとても大きくなり茂ってきたことに驚きました。だんだん風格が出てきましたね。

Kantei3坂の下から眺めると、総理執務室のあるところまで届きそうなくらい木々が茂っています。以前は『ここが日本の権力の中枢部なんだなー』と恐れ多い感じでしたが、今や1年周期で総理が変わってしまうほど総理の重みがなくなってしまいました。

そんな政治の世界が最近とても空しく思います。
それでも、誰かにこの国を託していかなければならないんだなと、とても複雑な想いで永田町を後にしました。

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~咲嘩(察化) あらすじ~(和泉流では察化を咲嘩と記す)
都の伯父に連歌の宗匠を頼もうと、主人は太郎冠者(シテ)をよびにいかせる。伯父を知らない冠者は、「みごひの察化」というすっぱ(騙り者)を伯父だと思い連れ帰る。驚いた主人から自分のまねをして振る舞うように命じられた冠者は、主人が自分にしたように察化を突き倒し、引っ込む。

~歌仙 あらすじ~
果報者が冠者二人を供に玉津島明神に参詣し絵馬を奉納する。その絵馬から柿下人丸(シテ)・僧正遍照・小野小町・在原業平・猿丸大夫・清原元輔が抜け出て月見の宴を張る。歌を案じ、杯を回すうちに、小町と遍照の仲が疑われ、長道具を持っての争いとなるが、夜明けとともに、歌人たちは下の絵馬に戻っていく。

出典
小林 責 監修 油谷光雄 編『狂言ハンドブック』三省堂、1995年

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2008年8月10日 (日)

「よこすか能」続き

Yokosuka3 蝋燭能とはいっても、補助的な照明は点灯するので全体的にはそれほど暗くありません。
今回の演目は「葵上」でしたが、「鉄輪」などを蝋燭能で観るのも趣がありますね。

今年は「源氏物語千年紀」ということで、「葵上」を観るのも先月に引き続き二度目でしたが、蝋燭能であること、舞台が能舞台ではないこと、破れ車と車添えの女が登場する古態演出であることなどで、とても新鮮な感動を得ることができました。

よこすか芸術劇場は初めて入ったのですが、印象としてはとても立派なオペラハウスといYokosuka5 う感じ。この大空間を生かす演出もなかなか難しいものであったと思います。

破れ車が舞台後方から登場するところは非常に奥行きがあり、闇の中から忽然と現れるといった不気味な感じが致しました。こういったところは大空間ならではの効果だと思います。

狂言「蚊相撲」の野村萬斎師はシテ(大名)役。衣装は、大名烏帽子素袍上下出立というものですが、萬斎師は本当にこういった格好がお似合いです。お顔も晴れ晴れとして美しく、もうそれを拝見しただけで満足(笑)

Yokosuka4 「蚊相撲」は、ストーリーそのものがユニークで面白いのですが、蚊の動きや刺された側がふらふらするところなど、動きが加わってさらに面白くなります。

昔、萬斎師がロンドンに留学されていた時、この「蚊相撲」を演じて見せたところ、イギリス人の俳優達にも理解が早かったのを覚えています。これは万国共通の笑いですね。

写真は上から「よこすか能のポスター」、「よこすか芸術劇場」、「横須賀港と手前はヴェルニー公園」

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2008年8月 9日 (土)

よこすか能

横須賀市の「よこすか芸術劇場」で行われた「よこすか能2008」を観てきました。観世喜正師の「葵上」、野村萬斎師の「蚊相撲」など素晴らしかったです。小鼓の大倉源次郎師を久々に拝見したのが非常にうれしかったですね。蝋燭能のため、ちょっとお顔がはっきり見えなかったのが残念でした。また感想などは明日にでも書きます。

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2008年7月27日 (日)

映像イメージとオペラ

昨日に引き続き「トリスタンとイゾルデ」鑑賞。
パリのアヴァンギャルドとはこういうものなのか・・・
しかし、昨日の演出に比べるとこういった映像世界との組み合わせというのはなかなか想像力を掻き立てられて面白いと思いました。
なぜか、このオペラを観ながら観世栄夫さんの「鉄輪」という映画のことを思い出しました。古典を現代劇の視点で描いたエロティックな物語です。
今日の舞台も映像の彩を生かすためにあえて登場人物や舞台装置はシンプルでした。能舞台も究極のシンプルさで人間の心の葛藤を描くのですが、どちらも共通していると思います。特に肉体と精神の世界を対比させるという点で似ているのではないかと思いました。

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2008年7月26日 (土)

週末はオペラ鑑賞

今日はbunkamuraオーチャードホールでパリ国立オペラ公演「アリアーヌと青ひげ」を観ました。
中世の城を廃墟と化した現代の工場に置き換えるという、かなり斬新な演出でした。私は、正直読み替え作品は苦手なので戸惑いましたが、今回かなり作品を聞き込んで予習してきたので、音楽そのものは非常に感動しました。
う~ん、ごめんなさい、どうもこの作品についてはなんて感想を書いてよいかわからないです。私には少し難しすぎたのかも…
明日はトリスタン~を観ます。どんな演出でしょうか、楽しみです。

それにしても、夏の渋谷は本当に暑い!
暑さに弱い人間なので、夏の観劇はつらいです。
と言いながらも、8月には能楽鑑賞の予定が入っているのですが…

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2008年7月13日 (日)

葵上

昨日は、国立能楽堂で能「葵上」を観ました。シテは谷村一太郎師です。
葵上は非常に有名な話なので、ご存知の方も多いと思いますから感想はごく簡単に・・・

「鉄輪」が庶民の女性の怨恨を表していることと比べると、「葵上」における六条御息所は高貴な女性であるため、その恨みの表現は異なります。誇り高い女性にとって、恨みを表に出すこと自体恥ずべきことなので、演じるシテも難しいのですが、観客もシテの心情を読み取ることが求められます。

そのため、下品にならないよう後妻打ち(うわなりうち)は何度も繰り返したりはしません。舞台に広げられた小袖を扇で打ち据える場面は、その一打に六条御息所の万感の思いが込められているように感じました。

最後は祈り伏せられて終わるのは、能ではよくあるストーリーですが、抑えられない嫉妬に苦しむ心の葛藤は、現実にはそれほど簡単に消え去るものではないでしょう。女性としては、怨恨や嫉妬という感情に優雅さや品位を求める方が無理なんじゃないかと思ってしまうのですが・・・

ところで、最後の鬼女となった六条御息所と小聖の場面で、かすかにドーンという音が聞こえました。
あれは雷か・・・
能楽堂を出ると、まさに雷雨が止んだところ。御息所の怒りと涙が雷雲を呼び寄せたのかもしれません。

『成仏得脱の、身となり行くぞありがたき・・・』

だんだんと晴れ渡ってゆく空を見ながら、何かとても印象的な出来事に感じました。

私がお能を見始めた頃、「安達原」のシテを谷村先生が演じられ、その時の感動があまりに衝撃的であったため、それ以来能楽ファンになりました。先生もお年を召されましたが、これからもますますお元気でご活躍いただきたいと思っております。

葵上 ~あらすじ~
はじめに後見が舞台正面先の床に小袖一枚を広げて置く。光源氏の正妻葵上の病臥をしめすのである。朱雀院に使える臣下が葵上の病因を知るために巫女に梓の法を行わせると、梓の弓の音に引かれて貴婦人が現れる。さめざめと涙を流す女の名を尋ねると六条御息所の怨霊と名のり、恨みごとを述べる。御息所は、皇太子妃としてはなやかな宮廷生活を送った身だったが、夫に先立たれたのち、光源氏と親しくなった。ところが、近ごろ源氏との仲が遠ざかり、顧みる人さえなくなったさびしさを述べ、光源氏の愛を奪った葵上を恨む。かきくどくうちに悔しさは高まり、御息所の霊は葵上の枕元にせまり、打ちたたきなどするが、のろいを残して姿を消す。葵上の容態の急変に、横川小聖が呼ばれ、祈祷が行われる。御息所の霊は鬼相をなして現れ、小聖に立ち向かうが、ついに祈り伏せられる。
―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

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2008年6月22日 (日)

笛が主役の能・狂言

一昨日の「能楽現在形」に引き続き昨日も国立能楽堂で能・狂言鑑賞でした。
演目は能は「清経(恋之音取)」(平清経:観世喜正師)、狂言は「吹取」(何某:野村萬斎師)
他に仕舞二番がありました。

狂言の「吹取」、これは初めて観る狂言でした。
知人(何某)役が笛を吹く場面があるのですが、まさか萬斎師ご本人が吹いて下さるとは思いませんでした。

通常は囃子方が笛を担当しますが、狂言師自身が吹く場合もあるとのこと。もちろん、狂言師本人が吹くことができれば一番ですが、そうそう吹ける方ばかりとも限りませんから、あまり演目としては選ばれないのかもしれません。ストーリーは大爆笑できるほど面白いんですけどね。

萬斎師のお笛はなかなか素晴らしく、もしかしたらかなり昔からお稽古をされていたのではないかと思えるほど。まさか、こんな貴重な場面を拝見することができるとは思ってもいませんでしたから嬉しかったです。

以前、何かで見たか読んだのですが、狂言師だからといって狂言だけ稽古をするのではなく、能の仕舞や、お囃子のお稽古もするようです。

「清経」は以前にも観たことがあるので、話の展開等はわかっていたのですが、今回、国立能楽堂主催公演以外では初めて「字幕システム」が使用されました。

改めてその解説を見ながら舞台を観ると、確かにわかりやすく、単に詞章を目で追うよりも、こうしてポイントの解説をしていただくほうが効果的だと思いました。

観世喜正師も萬斎師と同じく、「能楽現在形」に続き連日舞台を拝見することになりました。
「融」といい「清経」といい本当に優雅な役がお似合いの方ですね。平家の公達の哀愁を帯びた風情は美しく、修羅物とはいえ繊細な真情を品格をもって演じていらっしゃいました。

一噌隆之師の笛の音に誘われるようにして登場する清経。その笛の音は霊を呼び寄せる効力があるのでしょう。

―――沈み行く憂き身の果ぞ悲しき―――

清経は平家の前途を悲観し、戦わずして入水します。
戦で落ちる修羅道もあれば、生きる望みを失って落ちる修羅道もあるのですね。
修羅物とはいえ、老武者実盛の強さとはまた違ったもの悲しさを感じました。

あらすじは狂言の方だけ載せておきます。

◇吹取(ふきとり) あらすじ
男(シテ)が知人を訪問し、清水の観世音から月夜に五条の橋で笛を吹けば妻を授けてやろうと告げられたが、笛が吹けないのでかわりに吹いてほしいと頼む。承知した知人と男は五条の橋にいき、笛を吹く。女があらわれ、確かめれば観世音がお告げの妻である。だが対面すると醜女(しこめ)であった。男二人は互いに女を押しつけあいながら逃げていく。

出典
小林 責 監修 油谷光雄 編『狂言ハンドブック』三省堂、1995年

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2008年6月20日 (金)

古くて新しい能

今夜は、世田谷パブリックシアター「能楽現在形 劇場版@世田谷」公演で、半能「融」と能「舎利」を観てきました。公演終了後のポストトークも含めてなかなか楽しめました。(かなり爆笑させていただきました)

「融」の演出、特に始まりの部分は素晴らしかったです。いきなり異次元に引き込まれていくような不思議な感覚でしたね。能楽堂で亡霊達に出会う時も身の引き締まる感覚を覚えますが、こうして劇場空間で出会う能も新しい発見があって面白かったです。

「舎利」はもともとダイナミックな能で、それを普段は能舞台の限られた空間を使い切って演じるわけですが、今回のように物理的に広い空間で演じるのは逆に能楽師にとっては難しいのではないかという気がしました。ポストトークでいろいろ裏事情を暴露して下さいましたが、本当に皆さんプロだなぁと感心致しました。

それにしても一噌幸弘さんって面白い方ですね。野村萬斎さんは芸術監督として今回は仕切り役でしたけど、亀井広忠さん、片山清司さんも皆さんユーモアがあって魅力的な方たちばかり。こういう若手に能楽界が支えられているのをみて安心すると共に、日本人に生まれてしみじみよかったと思いました。

ごく簡単ですが、とりあえずの感想でした。
明日は国立能楽堂に行くので、また明日以降にまとめて感想を書くかもです。
あらすじは「舎利」だけ載せておきますね。

◇舎利 あらすじ
出雲国美保の関を出た旅僧が、十六羅漢・仏舎利を拝もうと東山の泉涌寺へ参詣する。寺の男の案内で僧は仏舎利を礼拝し、感涙に墨染の袖を濡らしていた。そこに寺近くに住む里の男が現れてともに仏舎利を拝み、仏法東漸のこと、霊鷲山のことなどを語るうちに空かき曇り、稲妻が走った。男の面色は急に変わり、その昔この仏舎利は足疾鬼が奪ったものだというと舎利殿に飛び上がり、牙舎利を取ると天井を蹴破って行方知らずになった(中入)。寺を守護する韋駄天が現れ、足疾鬼を逃がすまじと天に追い上げ、下界に下して牙舎利を奪い返すと、足疾鬼は力尽き、心も茫々として消えうせた。一畳台を舞台正先に据えて舎利塔を置く。

―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

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2008年5月18日 (日)

時空を超えた水の記憶

昨日はシアターコクーンで「わが魂は輝く水なり」を観ました。

" ゚☆,。・:*:・゚★o(´▽`*)/感動した!!!★,。・:*:・☆゚ "

Bunkamura1小泉さんの音楽遍歴を読んだ影響じゃないですけど(笑)、 もうね、難しいことはどうでもいいって感じです。素直に素晴らしいと感じました。私は普段ほとんど演劇を観ないのですが、演劇にハマる人の気持ちがわかりましたし、私ももっと時間があれば古典だけではなくいろいろ観たいなと思いました。

もちろん、観に行く前は戯曲を何度も読み、能との違いを考察したくて「実盛」も「巴」も観ました。平家物語も読みましたし、斉藤実盛や木曾義仲らの生きた時代背景を改めて調べてみたりもしました。「平家物語と謡曲」の世界にさらに興味が深まりましたし、それはそれで楽しい作業でしたね。

ところが、実際に舞台を観るとそういうことは二の次になってしまいました。
時代背景や装束は古典でも、そこに登場する実盛も五郎も巴も皆まったく別の空間を生きている人物だったから。私には彼らが時空を超え姿を変えた現代の人物のように見えました。ただし、現代に生きる日本人と違うのは、彼らが狂気と正気の間を行き来する熱狂的な人物だったこと。

この戯曲のテーマのひとつとして「水」があります。人間は水から生まれた生命だといわれます。ダイビングが趣味の知人が昔よく言っていたことですが、「何もかも忘れたい時は潜りに行く。そして水に囲まれてじっとしているとなぜか母親の胎内にいるかのような安らぎを感じる」と。私は経験したことがないのですが、わかるような気がします。

人間の生存に必要な事物に木・火・土・金・水の五元素があるといわれます。
木が燃えて火となり、燃えて残った灰は土となる。土が固まると鉱物となり、鉱物の存在する山から水が出る。その水は木を育て・・・
これは宇宙の法則であり人間の持つ宿命です。

『妙だ、水を思うと心がなごむ、心が落着く・・・・・・なぜだ・・・・・・』
実盛は最後にこうつぶやきます。水から生まれ、水に戻っていく実盛。その水が森を育て時空を超えて現代に蘇った実盛を舞台で観たのかもしれません。

ところで、謡曲の平家物語が主として琵琶法師から「聞く」物語であり、能として「観る」ものであることと比べると、清水邦夫氏の戯曲と蜷川幸雄氏の演出という組み合わせは何を表現しようとしたのでしょう。

私が感じ取ったのは「言葉」の持つ美しさ、力強さでしょうか。能の詞章の美しさは常々感じているところですが、特に亡霊である五郎の語る言葉は非常に詩的で、彼の発する言葉は深い森の中に佇んでいるかのような幻想的な空気に覆われていました。

尾上菊之助さんが亡霊である五郎役をやることになったいきさつは知りませんが、何という適役なのでしょう。菊之助さんはまるで女性、森の妖精といってもいい雰囲気でした。森の中でキラキラと輝く透明感が素晴らしかったです。

ちょっとここからはミーハーな感想です・・・
私の席はかなり舞台に近い通路側の席だったのですが、何度か菊之助さんが通路を駆け巡り立ち止まりセリフを語る場面がありました。もう穴の開くほど見つめることができるほどの至近距離(『えっ、私に語りかけているの?』と思うくらい)で拝見させてもらったのですが、
『なんて美しい人なんだろう』
というのが正直な感想です。
お肌はツヤツヤ、ピカピカ、非の打ち所の無い美しさ。
しかも、菊之助さんの衣装から何ともいえないお香のような良い香りがしました。
(これ、絶対に私の幻想ではないです。通路側のお客さんはきっと感じたと思います。萬斎さんも一度通過したけど特に香らなかった・・・クンクン(爆))

それにしても、今回の舞台は菊之助さんに限らず魅力的な役者さんがたくさんいらっしゃって目移りするほど素敵でした。
私はどちらかというと野村萬斎さん目当てで観に来たようなものだったのですが、実は一番心奪われてしまったのが斉藤六郎役の坂東亀三郎さん。
こんな素敵な方がいらっしゃったの!ってほど素敵!
『ああ、亀三郎、亀三郎、あなたはどうして亀三郎なの?』
(いや亀三郎ですから・・・)
私は亀三郎さんに恋してしまったかも(笑)
萬斎さんそっちのけで亀三郎さんに釘付け状態でした。

萬斎さんはもちろん素晴らしかったですよ。あまり細かいことは書けませんが、萬斎さんの殺陣のスピード感は鞍馬天狗の時と同じ。
くるくると身体を回転させる華麗な刀さばきは溜息が出るほどの美しさ。
他のシーンは老いを強調している描き方なので、動きの多いシーンだけ見るととても老武者とは思えませんでしたね。

また、平維盛役の長谷川博巳さんも優柔不断な維盛を滑稽に演じていてよかったと思います。他にもこれから期待できる役者さんたちが大勢いて、その方たちの演技を見るだけでワクワクするものがありました。

俳優さんたちのピチピチとした躍動感
ああ、これが舞台芸術の素晴らしいところなのでしょう。
オペラなら迷わずブラボーと叫ぶだろうという箇所がそこここにありました。
ファンの方が何度も劇場に足を運びたくなる気持ち、よくわかりました。Bunkamura2

倶利伽羅谷の壮絶な戦いも革命を夢見た連合赤軍も舞台は森。
鮮血に染まった倶利伽羅谷は、今でも月夜の晩には悲鳴が聞こえるとか。
『森を駆け巡り森で死んだ人々は何を求めて森を目指したのだろう』
戦うことを忘れたのか、あきらめたのか、妙にクールな今の時代から見ると、良い悪いは別として彼らはとても熱くみえます。
念仏の流れる黒く焼けただれた石仏群の暗い場面は、現代を暗示しているのかもしれないと思いました。

写真はbunkamuraの中庭。ザ・ミュージアムで「薔薇空間」が始まったので、たくさんのバラが美しい。皆さん写真を撮っていらっしゃいました。

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2008年5月10日 (土)

小泉さんと音楽

小泉元首相インタビュー 「総理はつらいよ」

Koizumi19 小泉元首相が「音楽遍歴」と題する本を日本経済新聞出版社から出す。在任中、オペラを見にいったり、プレスリーを歌ったりした大の音楽好きとして知られている。「音楽と政治」と題して、ひさびさにインタビューした。
 本は、子どものころからどんなふうに音楽を聴いてきたかという話から始まり、いたって気楽に語られていく。「自分の好きなように聴け」というのが、小泉スタイルらしい。
 遍歴のスタートは? 地元横須賀の公立中学の先生がオーケストラづくりに乗り出し、「小泉君、バイオリンを教えよう」と誘った。「おもちゃの交響曲」が音楽事始め。
 だが、小泉氏はバイオリンをやめる。ハイフェッツの演奏する「ロマンス」をレコードで聴く。ああ、自分のへたなこと! 天才にはかなわない、以後、聴くのを専門にしようと思ったとか。 (中略)
 ミュージカル「ラ・マンチャの男」に励まされた。郵政改革のとき、遍歴の騎士ドン・キホーテの主題歌の「見果てぬ夢」をくちずさんだ。「夢は実りがたく、敵はあまたなりとも、胸に悲しみを秘めて、我は勇みて行かん」。小泉さん、信長のつもりかと思ったらドン・キホーテだったらしい。
 このごろどう過ごしています? 「本読んだりテレビ見たり、コンサート行ったり、たまに政治会合」。ちまたには「小泉再登板」を求める声がありますよ。「それはわたしを知らない人たちの言うこと」「総理大臣はつらいよ。しょっちゅうあまたの敵と闘っているのは」
 ご自分の葬儀にはどんな曲を? 「モリコーネの映画音楽を聴いてもらうのがいいんじゃない」
 本は、こう結んでいる。
 「総理大臣の職責から解放されて……これからは埋もれている名曲や新しい名曲を求めて遍歴の旅にでかけようと思っている」(聞き手・早野透、吉田純子)
(asahi.com 2008年05月09日12時35分)

全文載せたかったのですが、長かったので途中略させてもらいました。なかなか興味深いインタビューなので是非リンク先の朝日新聞記事をお読み下さいね。

今朝、朝日新聞の政治面を開いたら、いきなり小泉さんの写真とこのインタビューがバ~ンと載っていたのでビックリ。しかもインタビュアーがあの早野透氏とは・・・Koizumi20_3

早野氏は小泉さんが総理時代かなり批判的な記事を書いていたので、『どうして音楽のインタビューを?』と思いましたが、インタビューの内容にそこはかとない愛を感じました。小泉さん本人を目の前にすると早野氏も彼の魅力に引き込まれてしまったのかしら。

小泉さんの音楽好きは有名ですが、大臣室でも公用車の中でも音楽を聞いていらっしゃったようです。音楽が心の友なんですね。

小泉さんと音楽で思い出すのは2005年の郵政選挙の時のこと。
あの熾烈な選挙戦の中、公邸へ帰りシャワーを浴びた後、お気に入りのワインを飲みながらフォーレの「レクイエム」やモリコーネの音楽で癒されていたそうな。
官邸の執務室では一人クラシックを大音量で聞きながら選挙戦略を練り、9.11の大勝利の後観に行かれたのは「タンホイザー」。序曲を聴くといつも涙ぐんでしまうそうです。
孤独な宰相を力づけてくれたのは音楽だったのですね。

小泉さんは音楽ならばロックからクラシックまで幅広く聴かれる方のようですが、傾向としては「癒し系の音楽」がお好きなのではないでしょうか。まだ総理になられたばかりの頃、ジョナサン・イライアスの「プレイヤー・サイクル」がお気に入りと聞きましたし、モリコーネの音楽も哀愁に満ちた癒される音楽です。私だったらリベラなんかがお勧めですけどね。

総理大臣という職務は次から次へと重い決断を迫られる職業で、しかも誰にも頼ることができず非常に孤独です。我々には計り知れないほどの重圧があったことでしょう。孤独な小泉さんはその点、音楽に励まされていたのだと思います。

今回出版される本で、そんな小泉さんが小さい頃からどのように音楽に関わってきたのかが明かされるわけです。すごく楽しみですし、音楽を聴く上で参考にさせてもらおうと思っています。
読んだら感想を書きたいと思います。
9日に発売されてたんですね。知りませんでした。
こういう本だそうです。(Amazonへのリンク
Koizumi21_4   

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
え~今年も情報断食をします。
日曜日の晩までパソコンの無い状態で過ごします。
では、それまでしばしお別れです・・・

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2008年4月13日 (日)

凛々しい女性

4月12日(土)MOA美術館定期演能会
「巴」宝生流
シテ:田崎隆三師

「巴」は女武者を主人公とする唯一の能で、私は今回が初見でした。
里女として登場する優雅で気品のある前シテ、女武者としての勇壮な後シテ、そして愛する主君木曾義仲の最期の地から後ろ髪を引かれる思いで去っていかなければならない悲しい最後という、大まかにいってシテには三場面の姿が登場します。場面毎の切り替えはメリハリがあり、視覚的には里女と武者としての違いが装束や所作の違いとして現れますが、全般的に男性が演じる通常の修羅物と比べて、女性らしい気品のある風情が漂っていました。

女性が男性の姿で現れる能には「井筒」があります。この能も前シテは里女で後シテは在原業平の形見の衣装を着けて現れるのですが、「井筒」が女性としての悲しみや清純な愛を静かに表現しているのに対し、「巴」は自ら甲冑をつけ敵の大軍と戦った女性であることから、「井筒」の女性とはまったく意味するところが違います。「井筒」の女が受身で「静の女性」であれば、巴は女ながらも凛々しい「戦う女性」「動の女性」ですね。

どちらの女性に共感を覚えるかというと私は巴御前の方でしょうか。「巴」が荒々しい面だけが強調されているだけではなく、女性として健気でいじらしい姿を描いていることに魅力を感じます。

この能は後シテとしての薙刀さばきが見どころでもあるのですが、これは平家物語には書かれていません。ただし平家物語自体史実に基づいているとは思えない部分も多いので、巴御前が本当にものすごい女武将だったのかどうかはわかりません。そこは物語として楽しめばよいでしょう。

実際、舞台で薙刀を振り回す場面は豪快でしたが、実は「あっ!」と思ったシーンがありました。面をつけた状態ですと大変視野が狭くなりますが、シテの田崎隆三師が振り回した薙刀の刃先が脇座に座られていたワキヅレ(従僧)に当たり、まさに首の部分をはねたのです。私のまわりにいた方達からも思わず「あっ!」という声が漏れました。

面をつけ、三間四方の狭い能舞台であのような長い刀を振り回すのですから何かに当たっても無理はないのですが、それにしてもまさか僧の首をはねるとは・・・

そのこと自体にも驚いたのですが、もっと驚いたのはワキヅレの方がびくともしなかったことです。もちろん刃先は作り物ですから本物とは違いますが、思わず刀を避けようとするとか、当たった瞬間「あっ!」というような表情をされても仕方がないと思われましたが何事もなかったかのように無表情。さすがプロだと感心しました。

能は派手な舞台装置が無い分、観る側には無限大の想像力を与えられ、それが能を観る楽しみの一つになっています。例えば演者側の表現手段の一つとして装束がありますが、美しいだけではなく非常にいろいろな意味合いがあります。

巴御前が合戦の場面を語り薙刀さばきを行う際に身につけているのは、烏帽子のほかに甲冑に模した豪華な唐織です。実際に甲冑をつけるのではなく、豪華な装束を身につけることによって華やかな合戦シーンを想像してもらおうということなのでしょう。

今回シテが身に着けていたのは花菱亀甲の文様で、非常に気品のある装束でした。最後に登場する義仲の形見の小袖といい、「巴」では装束に深い意味が込められています。

最後場面は一転します。義仲の遺言により一緒の自害を許されなかった巴は、形見の小袖をいただき涙ながらに去るのですが、そこで甲冑に模した唐織を脱ぎ純白の小袖を身に着けます。

「上帯切り物具心静かに脱ぎ置き。梨打烏帽子同じく。かしこに脱ぎ捨て。御小袖を引きかづき・・・」

と地謡が歌っている間に舞台上で着替えるのですが、結構限られた時間内で行わなければならないので後見も大変です。しかし、さすがにピタリと決まっていましたね。辰巳満次郎師、野月聡師のお二人が後見でしたが、辰巳満次郎師は能楽ミニ講座、地謡、後見とさまざまな場面で活躍されていました。

純白の小袖と黒い信楽笠の対比が絵のように美しく、悄然と立ち去る姿に一人の女性としての哀れを感じました。

~「巴」あらすじ~
木曾の国の僧が近江の粟津に着くと、社の前で涙を流している若い女がいる。言葉をかけると、これは木曾義仲を祭った社だから、あなたも同国の人なら経を手向けなさいといって消え去る(中入)。僧が弔っていると女武者が現れ、義仲に仕えた巴御前の霊であることを明かし、義仲の戦いぶりや死の前後のようすを物語る。義仲が敗戦の混乱で乗馬を深田に踏み込み、動けなくなっていたのを、自分がここの松原に伴ってきて自害を勧め、寄せ手を追い散らして時をかせいだ。戻ってみると義仲はすでに最期を遂げていたので、自分は形見の品を持って、遺言どおりに木曾に帰ったと物語り、なお弔いを頼むのだった。

―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

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2008年3月30日 (日)

新国立劇場「アイーダ」

昨日は新国立劇場開場10周年記念特別公演「アイーダ」を観ました。
素晴らしかったです。感動しました!
新国立劇場のアイーダは1998年1月が初演なので、今回は再々演になるのだと思いますが、私自身は以前2003年の再演時にも観ているので、2度目になります。前回ゼッフィレッリ氏の素晴らしい演出、美術、衣装に圧倒されてしまい、今回の再演を心待ちにしていました。

Aida1 やはり、どうしても注目してしまうのは第2幕(第2場)の「凱旋の場」ですね。この場面があまりにも華やかで有名なので、アイーダといえばこの場面を思い浮かべてしまう方も多いと思います。しかし、パンフレットの解説を読むと『心理ドラマとしての全体の構成を乱しているという理由で、この場面を「アイーダ」の欠点とする意見も多い』とあります。

そうかなぁ・・・私は専門家ではないので、単純に感動してしまう場面なんですが・・・
私の周りの方々も第2幕が終わった後、盛んに「良かった~、感動した!」とおっしゃっていましたが。
そういえば16日(日)には福田首相も奥様と観にいらっしゃってたんですよね。10日(月)の初日には小泉元首相がいらっしゃっていたとか。絶対福田首相も「感動したっ!」と小泉さんのように思ったかと・・・

本物の馬が舞台上に登場したりして派手派手! もうとにかく豪華絢爛!
確かに、他のシーンでのアイーダとアムネリスの間で見えない火花がガンガン飛んでる場面は見どころですが、視覚的にも凱旋の場はワクワクしてしまいます。
槍を持って立っているその他大勢のエジプト兵の役、私もやってみた~い!
などと恐れ多いことを考えたりして(笑)

アイーダ役は前回時と同じノルマ・ファンティーニさん。アモナズロ役の堀内康雄さんも同じ。ファンティーニさんは「イル・トロヴァトーレ」のレオノーラ役でも拝見しているので私とってはなじみのある方です。彼女は新国立劇場の開場記念公演「アイーダ」でも演じていらっしゃるそうなのではまり役ですね。お二人とも役柄に溶け込み、歌と演技が一体化して素晴らしかったです。また新国立劇場合唱団の美しいハーモニーも素晴らしい!

アムネリス役のマリアンナ・タラソワさんとラダメス役のマルコ・ベルティさんは新国立劇場初登場です。タラソワさんのアムネリス、良かったです。何が良かったかというと、もちろん歌も演技もですが、たぶん女性ならああいう女性の心理がわかるし、つい応援したくなってしまうから(笑)。女性ならアイーダ派とアムネリス派に分かれると思います。トゥーランドットでトゥーランドット姫派とリュー派に分かれるように。私はアムネリスに同情してしまいますね。

この話は単純に言ってしまえばラダメスをめぐる女二人の三角関係です。二人の女性の情熱、嫉妬、苦悩、絶望といった心理的な部分をいかに表現するかが見どころでもあるのですが、アムネリスの方が権力者側に立つ人間であるゆえにアイーダ以上に難しい役でもあると思います。

それが最も現れるのが第4幕の裁判と地下牢の場面でしょう。権力さえあれば手に入らぬものは無かったはずなのに、ラダメスの愛だけは決して手に入れることはできなかったアムネリス。これは権力を持つ女性としては最大の屈辱であり、アイーダへの嫉妬心も燃え上がるものがあったのだと思います。

このマイナスへ向かう思考をいかにして最後、死へ向かうアイーダとラダメスへの鎮魂の祈りへ向かう力へ変えることができるのか、その心の葛藤を描くことがアムネリスとして最も難しい場面だと思います。

下層階級の女性ならば、もっと下品な表現で描かれるのかもしれませんが、一方のアイーダもエチオピアの王女であり、アムネリスと同様やはり心の葛藤として演じなければなりません。そういったところが心理ドラマといわれるところなのでしょう。

高貴な女性の嫉妬心を描いたものとしては能「葵上」の六条ノ御息所を思い出します。激しい嫉妬に狂う心の葛藤の中にも品格をもって演じなければならない点ではアムネリスと共通するところがあります。

地下牢で死を待つアイーダとラダメス、地上で二人の魂の平安を祈るアムネリスの場面は、上下二段に分かれた新国立劇場の大仕掛けの舞台で描かれます。観客からは彼らの苦悩を同時に見ることができるという設定です。Aida2

この演目は壮大なスペクタクルと表現されることが多く、確かに観ているだけでも豪華絢爛で楽しめるのですが、一方で登場人物の心の奥底を読み取る力を観客に求めてもいて、実はなかなか重たいテーマをもった演目なのではないかと感じました。

※写真はホワイエに展示されていた舞台の模型。下の写真は横から見たところです。

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2008年3月29日 (土)

祈りの世界

昨晩は国立能楽堂で行われた特別企画公演を観ました。簡単ですが感想など…
演目は以下のとおりです。

~高野山の声明~
唄(ばい)散華(さんげ)対揚(たいよう)
~狂言・大蔵流~
柿山伏(かきやまぶし)
~能・観世流~
鵜飼(うかい)

舞台で行われる声明はこれまで何度か聴いたことがあるのですが、仏典に節をつけたものなので内容はとても難しく、その場ではすぐに理解できません。
しかし、グレゴリオ聖歌と同じように、聴いていると不思議とゆったりとした気分になります。能の謡は声明がルーツだと思いますが、謡を聴きなれていると声明は独特な旋律に聴こえます。意味はわからなくても、普段忘れている祈りの世界に身を委ねるのも心地よいものです。

狂言「柿山伏」は素直に楽しめる演目です。
大蔵流の狂言を観るのは久しぶりなのですが、シテの茂山あきら師の能楽堂に響き渡るようなお声は大変清々しい感じが致しました。

能「鵜飼」のシテは観世流宗家観世清和師です。清和師の舞台を拝見するのは久しぶりで、今回大変楽しみにしておりました。
「阿漕」などと同じく殺生の罪を扱った作品であると共に、能ではよく見られる仏の功徳により救われるという物語ではあるのですが、恨み辛みをくどくどと述べるというよりは、そういった部分は割りとあっさりと描かれているような気が致します。清和師の松明や扇の使い方が美しく、悲惨な物語でありながらも美しさを感じてしまいました。
後シテは一転して閻魔大王として登場するのですが、とても豪快な大王でした。前シテと後シテが別人格となるのも前場を際立たせるための演出と考えられないでしょうか。

「ただ一乗の徳によりて、奈落に沈み果てて、浮かみがたき悪人の、仏果を得ん事は、この経の力ならずや」

最後は仏の功徳と経の力により救われますが、実際に声明を聞いた後だけに妙に現実的で、いつもより印象強く感じました。

~「鵜飼」あらすじ~

旅の僧たちが甲斐の石和川に赴く。鵜使いの老人が来かかるので言葉を掛けてみると、僧の一人が以前に接待を受けた宿の老人だった。老人は、実は自分はすでに死んで地獄に落ちている者だと打ち明け、殺生禁断の場所で鵜を使ったのが見つかり、川に沈めて殺されたのだと物語る。そして罪滅ぼしのためにといって、生前そのままに鵜飼いをして見せるが、やがて闇の中へ消え去る(中入) 。僧が小石に法華経の文字を記して弔うと、地獄の鬼が現れ、一僧一宿の功徳と法華経の力で老人は成仏したと告げ、この経を賛美する。
―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

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2008年3月16日 (日)

老武者の風格

今日は国立能楽堂で「実盛」を観ました。シテは本田光洋師です。

「六十に余って戦させば 若殿ばらに争いて先を駆けんもおとな気なし また老武者とて侮れられんも口おしかるべし」

実盛が常日頃言っていた言葉です。
「六十歳を超えて戦をすれば、若侍と争って、先陣を競うのも大人気ない。かといって、老武者だと人にあなどられるのも口惜しい」という意味です。

髪の毛と鬚を黒く染めて出陣したのはこういう理由があったからなんですね。また錦の直垂という大将にしか許されない装束で戦に臨んでいます。これは討ち死にすることを覚悟で平宗盛公に願い出たもので、宗盛公も快く許しました。

能舞台での実盛は、白髪の長い髪をなびかせ金箔の装束に身を包んでいました。老武者であるにもかかわらず、大変凛々しく見えました。白州正子さんの本によると、木曽義仲が幼い頃、実盛はすでに白髪であったとのことですので、実盛は若い頃から白髪が老いを象徴しているものとして気にしていたのかもしれません。

「まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へ」

池で首を洗うと黒く染めた髪が白髪に戻ります。実際の舞台では黒髪が白髪に戻るシーンはありませんが、「武士たるものは誰もがこのようであって欲しい。あっぱれである」と実盛の心意気には木曽殿はじめ一同が涙を流しました。身体は老いても実盛の精神は若武者のままだったのではないでしょうか。

いずれ誰かに殺されるのであれば、義仲殿に殺されたいという実盛の思いは、なかなか現代人には理解し難いものがあると思いますが、哀れにも手塚太郎光盛の手にかかって首をとられた無念さは理解できます。今回の舞台で修羅物の力強さと老武者の悲しさ無念さを自分なりに感じ取ることができたかと思います。

この作品は世阿弥の作ですが、狂言口開で始まる点は修羅能としては異例です。ちなみに口開役のアイ篠原の里人は石田幸雄師でした。

他に能「紅葉狩」(シテ:本田布由樹師)、仕舞四番、狂言「寝音曲」(太郎冠者:野村万作師、主:野村万之介師)がありました。
「寝音曲」の狂言小謡は「海人玉ノ段」でしたね。昨年、野村萬斎師が演じられた時は丁度桜の頃でしたから「咸陽宮琴ノ段」でした。萬斎師の謡も朗々として素晴らしかったのですが、万作、万之介ご両人の「寝音曲」もまた味わい深いものがあり、万作師のこっけいな演技に年配の観客の方々は大爆笑でした。私の隣にいらっしゃった奥様などは、笑いが止まらないといった感じで大うけしてましたね。

『能の物語』白州正子(講談社文芸文庫)1995年、「実盛」より引用

◇「実盛」あらすじ
遊行上人他阿弥陀仏が加賀の篠原で布教したおり、毎日聴聞に来る老人があるが、その姿は上人以外の目に見えない。ある日上人が問いただすと、この地で討死した斎藤実盛の霊だと告げて去る(中入)。上人が法要を営むと、昔の戦陣の姿で実盛の霊が現れ、染めた髪が洗われて白髪に戻った話、錦の直垂を着た話、手塚たちと戦って討死した話などを物語り、なおも回向をたのんで消え去る。
―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―
☆――――――――――――――---------‐‐‐

あ、ここからは妄想です。
本田光洋師演ずる実盛、本当にかっこよかったです。
金箔の装束を身にまとい、白い髪をなびかせ舞台を駆け巡る実盛を観ていたら、小泉元首相を思い出してしまいました。山本一太議員も小泉さんのことを「平成の戦国武将」と叫んでいましたが、確かに選挙の時の勇姿はどこか実盛に通じるところがあるような・・・
すみません、小泉さんが嫌いな人は忘れて下さいね。

国立能楽堂に行く前に東大に行って「山階コレクション」を見てきました。素晴らしい展示でした。これについては明日書きます。

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懐かしいポスター

部屋を片付けていて、いつもはまったく触ったことも無いクローゼットの奥を開けてみたら、野村萬斎さんの襲名披露公演のポスターが出てきました。
ひぇ~懐かしい。Syuumei1
このポスターどうしたんだろう、買ったのかな?もらったのかな?
もう全然覚えていないのですが、恐らく襲名披露公演に行った時入手したものと思われます。今見てもなかなか素敵なポスターだと思います。
下の方に富士山の絵がありますが、よく見るとそこには
『MANSAI NOMURA Return from the UK』
と書かれています。
確かに。英国留学から戻られて、あまり間を置かずに襲名披露公演が行われました。
客席で観ているこちらも息苦しくなるほど緊張感みなぎる舞台だったことは覚えています。
萬斎さんの気迫がものすごくて、観終わった後は体中の筋肉が弛緩してしまったようでした。体型も今以上に痩せていらっしゃいましたし、お顔もシャープで鋭利な刃物を思わせる雰囲気。近づいたら斬られるんじゃないか、と思えるほどの緊張感でした。
Syuumei2 あの時の萬斎さんは正直、正しく演ずることで精一杯で、余裕の無さを観客に感じさせてしまったと思います。
あの頃と比べると、今の舞台は同じ緊張感でも心地よい緊張感といった感じですね。

※写真はクリックすると大きくなります。

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2008年3月 8日 (土)

意外な発見

私は政治家ヲチが好きですが、そうそう毎日面白いネタが転がっているわけでもないので、政治ネタを書くことも多いです。今日だったら「日銀総裁人事」「空転続く参院予算委員会」あたりでしょうか。
う~む、正直書きたくない話題・・・
小泉さんの話題もないし、う~む・・・と思っていたところ私的に「へぇ~」という発見がありました。

私の手元に野村萬斎さんが「野村萬斎襲名披露」を行った当時の写真週刊誌があります。先ほど何気にパラパラと眺めていましたら、萬斎さんの写真に「PHOTO 鴨志田孝一」とあります。
『うぬ、鴨志田・・・どこかで聞いたような・・・』
『ああ~っ、純ちゃんの写真集を出した方ではないか!』
そうなんです。萬斎さんの追っかけ写真を掲載していたのは、小泉元首相の写真集を出したことで有名なカメラマン鴨志田孝一さんだったのです。
いやぁ何という偶然。
鴨志田さんって政治家だけでなくいろいろな人の写真を撮っていたのね。よく考えれば写真家としては別に不思議でも何でもないことなんですけど、ちょっとうれしかったです。

誌面には、襲名披露公演、衣装選び、女子大生への狂言の指導、パソコンの画面に向かっているところ、ジョギング、そして楽屋での野村家の人々といった写真が掲載されていました。
『鴨志田さんって純ちゃんだけじゃなくて萬斎さんも追っかけてたのか・・・』
っていうか能楽堂で襲名披露公演観てたってことじゃないですか。

せっかくなので記事の冒頭を引用します。
<<歌舞伎などと比較すると、狂言にはどうしてもマイナーなイメージがつきまとう。しかし、この人の場合、公演を行えば客席の7~8割が若い女性ファンで埋まり、終了後には、彼を一目見ようと楽屋口に女の子たちが待ち構える。1年間のイギリス留学を終えて8月末に帰国したばかりの野村萬斎(29)。狂言界期待の星は、現在、襲名披露公演の真っ只中である。(FOCUS平成7年11月15日)>>

こうして改めて読むと、いかに当時の人気がすごかったかわかります。今でも能楽堂に行くと女性のお客さんの方が多いなぁとは思いますが、お父上の万作さんのファンの方も多いので年齢層は幅広いと感じます。時折いかにも『萬斎さん好き好き』オーラを放っているお客さんもいらっしゃいますが、全般的には落ち着いた雰囲気かな。もちろん、今でも追っかけファンはいらっしゃるようですが。

と、今日は無理やり政治家と狂言師ネタを書いてみました。

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2008年3月 2日 (日)

ANDYの心象風景

Andy アンディ・サマーズの写真作品展を見に六本木のギャラリーに行ってきました。
彼はポリスのギタリストとしての方がはるかに有名ですが、フォトグラファーとしての経歴も知る人ぞ知るといったものがあります。新しい写真集でも出したのかな、と思ったのですが、今回展示されていた写真は過去に発表された写真集からのものでした。

彼の写真はマン・レイの影響を受けているのではないかと勝手に思っているのですが、もちろんフロイトの理論にも強く影響されているのでしょうけれど、言葉にできないイメージとか感情といったものを、わかりやすく通俗的に表現するのではなく、あえて理解不能なままにしておくことによって、見る側にいろいろ想像させるという手法をとっているのではないかと思うのです。彼が日本の枯山水庭園が好きだというのもよくわかりますね。

彼の音楽もそうですが、非常に想像力を掻き立てられるような旋律で、心地よいとはいえないのですがなぜか忘れられないんですね。耳に来るというより神経を刺激される、そんな感じです。アンディにかかると音楽も写真も精神と物質の間の架け橋になってしまう。本当に不思議な人です。

昔ライブハウスで2度彼の演奏を聴いたことがありますが、ライブだとそういった繊細な部分はあまり印象に残っていません。やはり写真なりアルバムなり作品として残された物の方が彼の世界観をより表しているような気がします。

ANDY SUMMERS写真展は3月10日まで六本木の未来画廊で開催中です。

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狂言に登場する妻たち

Gozarunoza39 「ござるの座39th」(国立能楽堂)の感想など・・・
狂言には様々な夫婦が登場しますが、夫婦の力関係でいえば妻の方が強い場合が多いようです。わわしい妻といってしまえば簡単ですが、そういった妻の中にも様々なパターンがあるようです。今回の演目で登場する妻は、強い妻、酒飲みの妻、健気な妻といったところでしょうか。

最初の演目「内沙汰(うちざた)」では、たよりない夫を叱咤激励する強い妻が登場します。妻役の石田幸雄師は強くて怖い妻役に適役だと思いました。狂言の女性役の多くは美男鬘(びなんかずら)という扮装で登場します。これは、頭に白い麻や木綿の布を巻き、両端を頭の左右に長くたらし、両手で持つのです。左右の布で顔の両端が隠れるため、厳つい男性の顔でもあまり目立たないという効果があります。石田幸雄師は美男鬘が非常に似合っており、美男鬘の合間から見える表情は本当に怖い妻そのもの。これではいくら訴訟の稽古だからとはいっても、地頭役を演ずる妻が本当の地頭に思えても無理はありません。思わず怖気づく夫右近を野村萬斎師は非常に素直にかわいらしく、そしてどこか哀愁が漂う表情で演じていらっしゃいました。
妻の前では決して威張ることはできないくせに、妻が去っていた後に指をさす仕草など、観ている観客の私達は思わず笑ってしまうシーンではありますが、右近の心中を察すれば、情けないような悲しいような、それでいて笑ってごまかすしかない複雑な気持ちなのでしょう。男性の方々はどこか身につまされるところがあったのではないでしょうか。
訴訟の稽古で妻が演じる地頭を本物の地頭だと思ってしまうなどということは現実ではありえないのですが、そういった狂言的表現を用いることによって、右近の人の良さを際立たせていたように感じられました。

続いての演目は「因幡堂(いなばどう)」です。
夫(野村万之介師)をだまして被りものをしている(離別した)妻(深田博治師)は、どこか「花子」を思い浮かべてしまいます。この演目に登場する妻は大酒飲みの妻なのですが、それが夫に嫌われた原因であるにもかかわらず、新妻を演じる際にも遠慮なく酒をおかわりするとは、何と厚かましく図太い精神の持ち主なのでしょう。夫も思わず「興の醒め果てたものかな」とあきれますが一向に構わない様子。しかし、自分の大酒飲みを棚に上げて「西門の一の階(きざはし)に立つ女を妻に定めよ」とお告げを下すあたり、夫に未練たっぷりといったところですね。
被りものをとって妻だとわかった瞬間の夫の驚きの表情は見ものです。驚き逃げていく場面がスローモーションで演じられていますが、これは狂言によくみられる表現です。ゆっくりと演じることにより、夫の妻に対する恐怖心がよく表れていると思いました。

休憩に続き「素囃子 男舞」です。
能楽堂でお囃子を聴くのは清々しい気分になります。
お囃子の方々は若手の方々ばかりで、力強く切れのよい響きが耳に心地よかったです。

素囃子に続き最後の演目「塗師平六(ぬしへいろく)」です。
話自体は滑稽ですが、ここに登場する妻は、夫の未熟さを心配するあまり大芝居を打つのです。そんなこととは知らず登場する夫を萬斎師が演じるのですが、最初は軽くてひょうきんな感じであったのが、妻の説得に応じて幽霊を演じることになると、一転して後半は能を模した舞狂言形式に変わります。
この前能「藤戸」を観たばかりですが、ちょっと雰囲気は似ています。黒頭で面も痩男のようなものをつけていました。同じ幽霊でも能と違って多少笑いの部分もあるのですが、もしこの後半の部分だけ観たとしたら、恐らく能の一部だと思ってしまうのではないでしょうか。能のシテ方を萬斎師が演じているといってもいいです。謡いながら舞う萬斎師は華麗でした。また師匠役の野村万作師の味わいのある演技も素晴らしかったです。萬斎師にとってお父上は、実際に狂言師としての師匠であるわけで、お二人が舞台で競演できるとは萬斎師もお幸せな方ですね。もうずいぶん昔のことですが、お二人が「二人袴」を演じられた時のことを思い出してしまいました。

さて、三演目どれも個性的な妻が登場しましたが、共通点は夫への深い愛情があることです。強がりを言って夫の尻を叩いているようでも、それは愛情の裏返しなのです。本当に関心が無くなってしまえば夫が失敗しようが恥をかこうが平気なのではないですか。大好きな夫だからこそ、ああだこうだと夫を叱咤激励するのでしょうね。

ところで、パンフレットの萬斎師のお話によると、「鞍馬天狗」の撮影中に左足の親指の爪をはがしてしまわれたそう。前回のござるの座の直前だったそうで、痛みをこらえての演技だったようですが、まったく気がつきませんでした。気がつかせないようにするところがさすがプロというところでしょうが、実際痛かったでしょうね・・・
また、パンフレットの最後には桂小五郎気象予報士こと石原良純氏が「鞍馬天狗と桂小五郎」と題して寄稿されていました。全然方向性が違うお二人なのでお互いに興味津々のよう。もしかしたら再びお二人の共演がどこかであるかもしれません。

☆――――――――――――――---------‐‐‐
~あらすじ~
<内沙汰(うちざた)>
右近が、伊勢講が成就したので一緒に参宮しようと妻を誘うが、妻は徒歩でいくのは嫌だという。そこで右近は、左近の牛が自分の田を食べたので弁償にその牛をもらい、それに乗っていけばよいといい、公事(裁判)に訴えるために妻を相手に稽古する。初めは、左近の立場になって稽古し、上手に言い分がいえるが、自分の言い分の稽古ではしどろもどろになり、気を失う。

<因幡堂(いなばどう)>
大酒のみの妻をもった夫(シテ)が、妻が実家へ帰っている間に離縁状を送りつけ、新しい妻を得るため因幡堂の薬師に妻乞いにいく。そこへ腹を立てた妻がやってきて、通夜(おこもり)をしている夫に「西門の一の階(きざはし)に立った女を妻にせよ」と薬師になりすまして告げ、自分がその場所へいって被衣(かずき)をかぶって待ち構える。喜んだ夫は、新しい妻だと信じこんで連れ帰る。祝言の盃になるが、女は何杯も飲み干すうえ、顔を見せない。業を煮やした夫がむりやり被衣をとると、もとの妻の顔があらわれ、怒った妻に追いかけられた男は言い訳しながら逃げていく。

<塗師平六(ぬしへいろく)>
都の塗師が、都では仕事がないので、越前に住む弟子の平六(シテ)を訪ねる。商売敵が増えて困ると考えた妻は、平六は死んだといって師匠を追い返そうとする。そこへ仕事場から出てきた平六は、妻に言い含められ幽霊を装い対面することにする。妻と師匠が念仏を唱えていると、幽霊姿の平六があらわれ、塗物の手順によそえて餓鬼道の様子を謡い舞う。

出典
小林 責 監修 油谷光雄 編『狂言ハンドブック』三省堂、1995年

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2008年2月24日 (日)

老武者実盛とその息子

野村萬斎さんが斎藤実盛、尾上菊之助さんがその息子役の五郎で競演とあらば、能狂言ファン、歌舞伎ファンならずとも興味津々の舞台だと思いませんか。
その舞台は「わが魂は輝く水なり」(作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄)。5月4日からシアターコクーンで始まります。

先日、ぴあカード会員の機関紙に武者姿の萬斎さん、菊之助さんお二人並んだ写真が掲載されていたのを見ました。恐らくポスター撮影時の合間に撮られた写真ではないかと思います。

お二人ともさすがの存在感。そして美しい・・・shine

舞台で演じる斎藤実盛は60歳の武将なのですが、萬斎さんは「花の乱」の細川勝元役を髣髴とさせる、ある種の狂気が宿っているかのような表情です。一方、息子五郎役の菊之助さんは対照的に繊細で女性的な雰囲気。もともとやさしいお顔立ちでいらっしゃるのですが、今回は亡霊として登場されるためか憂いをたたえた美少年という感じです。役柄は違ってもお二人とも眼力がすごいですね。

ここ何年も忙しかったせいもあり、能・狂言・オペラの舞台を観に行くのに精一杯で、とても演劇の舞台を見る時間が取れなかったのですが、昨年、野村萬斎さんの「国盗人」を観て演劇の魅力に開眼しました。もちろん、今回の公演に行くためチケットの先行予約でとんでもなくいい席をゲット。清水邦夫氏の原作(戯曲)は現在売っていないのですが、何とか読める手はずは整いましたし蜷川さんの演出も楽しみです。あぁ早く観たい!

やはり萬斎さんは狂気をはらんだ戦国武将とか陰陽師といった、ちょっとひねった役柄が似合うな~。鞍馬天狗はヒーローでしょう。ああいう善い人だと彼の魅力はあまり発揮されないような気がします。同じヒーローでも「国盗人」の悪三郎のような悪のヒーローは適役でした。

行ってみたいな~と思われた方は是非!
チケットの発売日は3月2日(日)からです。

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2008年2月10日 (日)

能楽堂で死者の声を聞く

土曜日に国立能楽堂で能「藤戸」を観ました。シテは本田光洋師です。
あらすじを読んでいただければ大体わかるかと思いますが、これは大変残酷な物語です。この物語は史実ですが、平家物語では殺害される名も無い漁師についての記述は詳しく書かれていません。歴史というものは勝利者の立場で書かれ伝わっていくので仕方の無いことかもしれませんが、この作品は底辺の者から権力者に対する怒りを描いたものとして異質です。

愛するわが子を殺した権力者に怒りをぶつける母親の姿は、当たり前の感情ではあるのですが、この当時の世相としては相当勇気の要る行為だったにちがいありません。もちろん、母親は史実にも登場しない人物なので、作者は母親の姿を借りて弱者の無念と権力者の非道に対する責任追及を描きたかったのだと思います。これ以上失うものは無いという母親の強さは鬼気迫るものがあります。

能の作品には恨みや怒り悲しみといった感情を描いたものが多いのですが、最後は御仏の御加護によって救われるという展開になります。それだけ当時の方々は宗教に救いを求めていたのだと思いますが、この藤戸でも最後は一転して簡単に成仏してしまいます。この展開は、あまりにあっけないようにも感じますが、権力者への精一杯の抵抗を描くためにはこういった結末であっても仕方がなかったのかもしれません。

ところで、この作品の後シテの面は痩男(やせおとこ)をつけることが多いのですが、この面についてはちょっと不気味な話があります。最初にこの面を打ったのは氷見宗忠という能面師だといわれていますが、彼は僧侶でもあったため新仏の埋葬があった夜、棺に納められた死者の顔をじっと観察し、それを面に写し取ったとされています。

確かに、そういわれて痩男の面を見ると、ほとんど肉の無い不気味な形相をしています。後場は殺された時の状況をリアルに表現する場面があるので、不気味ではありますが死者としての写実的な面の方が見る側にとっては胸に迫ってくるものがあります。逆に演者にとって死者を演ずるということは難しいところでしょう。

よくよく考えてみると、能楽堂では霊になった死者が演じられることが多い。ほとんどの演目がそうだといってもいいくらいです。確かに、能が成立した時代は、戦乱や飢餓で、人々は常に死と隣り合わせに生きていました。
自らの生命を実感すると共に、無念の気持ちを抱いて死んでいった人々の気持ちを少しでも共有できれば、能楽堂で死者の声を聞くことも意義深いものだと、改めて今回の藤戸を観て思いました。

◇あらすじ
佐々木盛綱は、藤戸の先陣の功によって賜った備前の児島に、初めて領主として乗り込み、訴えごとがあれば申し出よと領民に触れを出した。すると年たけた女が来て、罪もないわが子が海に沈められたことの恨みを述べる。盛綱は隠しきれず、浅瀬を教えてくれた漁夫を殺して海に沈めたいきさつを物語る。女は、二十余りまで育てた愛児を失った悲しみを訴え、わが子を返せと盛綱に迫る。盛綱も自らの非を詫び、弔いを約束して老母に私宅へ送り返す(中入)。盛綱が弔いをすると、漁夫の怨霊が痩せ衰えた姿で現れる。怨霊は、殺されたときの苦痛を述べて盛綱に襲いかかろうとするが、結局は弔いの功徳で成仏する。

―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

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2007年12月10日 (月)

一炊の夢

土曜日に国立能楽堂の普及公演で観世流「邯鄲」を観ました。
シテは角寛次朗師です。

この曲で印象的なのが舞台に登場する作り物で、非常に重要な役割を果たします。
その作り物とは、寝台と宮殿の王座を兼ねる「一畳台に引立大宮を立てたもの」と盧生がワキに楚国の王になることを告げられた時乗っていく「輿」(屋根の部分)です。

この一畳台の上で50年間の栄華が描かれるのですから、この一畳台には大変な空間の広がりがあります。どれくらいの広がりを見せることができるかは、演者の力量が問われるところです。

また、栄華の人生が描かれている間、「輿」が鏡板に立てかけられています。
現実から夢へ、そして再び現実へと舞台上ではめまぐるしい展開を見せますが、「輿」は夢の部分の象徴として置かれていたのだと思います。中入りが無い一場物のため、区切りという意味でも重要だったと思います。

舞の途中で、一畳台から一瞬足を踏み外す場面があります。これは「空下り」という型ですが、「これは夢か現実か・・・」と一瞬迷うような仕草で、なかなか面白い型です。一瞬ですから見逃さないようにしなければなりません。

夢から覚める直前に、シテが一畳台に滑り込み、一瞬のうちに眠りの型をとるところは、地謡の高揚感とともにスピード感と緊張感がある場面です。どこか道成寺の鐘入りを思い起こさせました。ここは最高の見せ場でもあり、技術的にも難しいタイミングを要求されます。

同時に大臣達と鏡板に立てかけてあった「輿」が消え入るようにいなくなってしまいます。煙のように忽然と消えていくという感じです。

盧生は宿の女主人に
「あら久しとお休み候ふや、粟の飯ができて候、とうとうおひるなれ候へや」
と起こされます。

話は脇道にそれますが、すごく昔邯鄲を観たのですが、その時の宿の女主人役は野村萬斎師でした。とてもお若い頃だったので、本当の女性のような出で立ちで美しかったことを思い出します。なかなかその後この役の萬斎師にお目にかからないので、貴重な体験でした。

さて、現実に戻ってからの展開は一転して静の世界。地謡も非常に抑えた謡に変わります。

地謡:女御更衣の声と聞きしは、
シテ:松風の音となり、
地謡:宮殿楼閣は、
シテ:ただ邯鄲の仮の宿、
地謡:栄華の程は、
シテ:五十年、
地謡:さて夢の間は粟飯の、
シテ:一炊の間なり、

この曲は非常に哲学的な能だといわれます。確かに舞台上で繰り広げられているのは盧生の人生ですが、それを客席から見ている私達一人一人の人生も小さな一畳台の上の人生なのかもしれないと思ってしまいました。
悩み悲しみ喜ぶ長い人生も、もしかしたら「一炊の夢」なのかもしれません。

◇あらすじ
蜀の国の若者盧生が人生に疑問を持ち、仏道の師を求めて羊飛山へ赴く途中、邯鄲の里で雨宿りをする。宿の女あるじが、不思議な枕を見せて勧めるので昼寝の床につくと、楚国の帝の使いが来て盧生を起こし、譲位の勅を伝える。都へ導かれて即位した盧生は、満ち足りた栄華を味わう。即位五十年の酒宴では舞童の舞を見、自分も立って舞い興じるが、それはすべて夢の中の出来事で、宿の寝台に寝ていたのだった。宿の女あるじに起こされてみると、それは粟の飯がたける間のわずかの時間だったと知り、初めは呆然としていた盧生は、やがて人生の何たるかを悟り、心安らかに故郷に帰るのだった。

―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

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2007年12月 2日 (日)

愛すべき登場人物

Gozarunoza38 昨日観た野村萬斎「狂言 ござるの座38th」の感想など少し・・・
演目は「鬼瓦」「鳴子」「岡太夫」の3番です。

「鬼瓦」は狂言の中でも小品といわれる短いもので、内容もこみ入ったものではなくわかりやすいため、逆に狂言師の表現力が問われる作品だと思います。
大名は鬼瓦を見て、ふと故郷に残してきた妻を思い出してしまうのですが、普通に考えると「鬼瓦のような顔をした妻」は夫にとってちょっと怖い存在です。狂言的にいえば「わわしい女」ですね。でも、この大名は懐かしがって泣いてしまうのです。
普段は恐妻家で妻の尻にしかれている大名ですが、本当は恋しくてたまらないという気持ち。何だか複雑ですがわかるような気も致します。そしてそんな大名をなぐさめる太郎冠者の存在も温かい。泣きから笑いへと移っていく展開は単純に見えるようで奥が深いものがあります。
大名役の野村万作師は、夫としての複雑な心境を哀愁あふれる表現力で演じ観客を魅了しました。若い狂言師が演じればまた違う趣があるのでしょうが、そこが狂言の面白いところ。円熟の域に達した狂言師には夕暮れの太陽のようなおだやかさが感じられました。

続いて「鳴子」
太郎冠者と次郎冠者の「合わせ鏡の演技」がみどころ。奥州名所尽くしの謡はやはり太郎冠者役の野村萬斎師の方が次郎冠者役の深田博治師より存在感が勝っていたのは致し方がないことかもしれません。
「寝音曲」などもそうですが、萬斎師の謡を堪能したい方には良い演目だったのではないでしょうか。

最後は「岡太夫」です。私は今回のプログラムではこの演目に一番注目していました。
一言で言えば「名前が思い出せない」というテーマなのですが、昨今はこのテーマ、単純に笑えないのです。
この聟(むこ)のように3歩歩いたら忘れてしまうというほどではありませんが、私もなかなか人の名前など思い出せないことがあり、これは他人事とは思えませんでした。
聟というのは当然若い男性という設定なので単純に笑えるのかもしれませんが、もしこれが舅のほうだったらちょっと洒落にならないです。
萬斎師は無邪気に振る舞う聟という役を見事に演じており、愛すべき聟といった感じでした。蕨餅のおかわりをする場面はとてもリアルな演技で、こんなにおいしそうに食べてくれるのならば作る方もうれしくなります。
「太郎冠者、もっと食べさせてあげて」と心の中で思ってしまいました。
「蕨餅」という言葉でさえ思い出せない聟に、漢詩だの岡太夫だの難しいことを言っても酷ですが、萬斎師の初々しい聟の演技は深刻さを吹き飛ばす明るさがありました。
この演目は是非これからも上演して広く知っていただきたいです。

狂言を観るといつも思うことですが、狂言の登場人物は、どんなに主人や妻と対立してもどこか憎めない愛すべき人物だということです。能の表現が間接的、観念的であることと比べると、狂言は直接的な表現である分、一歩間違えるとリアルになりすぎてしまいます。
そこで、やさしさや温かみがにじみ出るような表現力、演技力が求められるのだと思います。能とは違う意味で奥が深いですね。

能と狂言の違いといえば今回のパンフレットの萬斎師の言葉の最後に、このたび茂山千作翁が狂言師として初めて文化勲章を受けられたことへのお祝いが述べられていました。以下その部分を引用させていただきます。

≪御本人の栄誉もさる事ながら、笑いを扱うために軽んじられ、能の陰にあった狂言の地位がここまで向上し、認められたことを示す、まさに金字塔ともいうべきことだと思います。明治維新後、不遇の時代に苦労した曽祖父・初世萬斎が聞けば、さぞ驚くことでしょう。狂言にとって良い時代になったとつくづく感じています。≫

確かに萬斎師のおっしゃるとおり、狂言というのは能の影に隠れて目立たない存在でした。実際お父上の万作師自身そのことで非常につらい目にあわれたと御著書でも述べられています。昔、能楽師の勝手な都合で間狂言の部分だけカットされてしまったことがあったようで、そのときの悔しさや屈辱感が狂言の立場の向上を目指す原動力になったようです。

萬斎師はご自身の人気は高いですが、やはり狂言界に身を置くものとして能に比べて狂言を低く見る空気は常に感じていたのでしょう。お父上の人間国宝指定とともに茂山千作翁の文化勲章の受章は心からの喜びだったと思われます。

実際私もそういった空気は感じます。格式の高い能の会に行くと、休憩時間だけでお昼を済ますことがあわただしいので、狂言を観ずに食堂でのんびりお弁当を食べている方も多いです。
私は「せっかくの狂言なのに観ないなんてもったいない」と思うので、休憩時間だけであわただしく食事を済ますのですが、能だけを目的に来ていらっしゃる方にとって狂言は休憩時間と同じ扱いのようで残念です。
能好きの友人はいるのですが、そういう人は昨日のような狂言づくしの会には行きたがらないですね。まだまだ萬斎師には狂言の地位向上のため頑張っていただかなければなりません。

☆――――――――――――――---------‐‐‐
<鬼瓦(おにがわら)>
◇あらすじ
長々在京した遠国の大名(シテ)が、訴訟も無事すみ、帰国することになったので、太郎冠者を連れて、日ごろ信仰する因幡薬師(いなばやくし)へお礼とお別れに参詣する。礼拝のあと、この薬師を国許へ勧請(かんじょう)するため、堂の造作を詳しくみて回る。そのうち屋根の破風(はふ)の上の鬼瓦が目にとまり、大名は国に残した妻を思いだして泣きはじめる。太郎冠者が間もなく帰国すればお会いになれると慰めると、大名も気をとり直し、二人で大きく笑う。

<鳴子(なるこ)>
◇あらすじ
実った田を群鳥(むらどり)が荒らすので、主人は太郎冠者(シテ) と次郎冠者に鳴子で鳥を追わせる。二人が鳥を追う田に主人が酒を持って見舞い、夜になれば戻れ、といって去る。二人は酒を飲み、鳥を追い、謡を謡い、酔いか疲れか眠り込んでしまう。心配になった主人が再びくる。眠る二人を見つけて叱るので、二人はあわてて逃げ出す。

<岡太夫(おかだゆう)>
◇あらすじ
聟(むこ)入りにきた男(シテ)に舅は蕨餅(わらびもち)をだし、これは岡太夫ともよばれ朗詠の詩にも詠まれていると教える。帰宅した男は妻に作らせようとするが、名を忘れたので詩をつぎつぎあげさせる。めざす名が出てこずいらだった男が妻に手を上げると、妻が、「紫塵の懶(ものう)き蕨人手を拳(にぎ)る」と吟じたのでやっと思いだす。

出典
小林 責 監修 油谷光雄 編『狂言ハンドブック』三省堂、1995年

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2007年10月22日 (月)

語り芸と笑い

昨日、国立能楽堂で行われた「万作を観る会」の感想など・・・
今回の公演は、能「姨捨」の間狂言の語りと同曲の仕舞、狂言が「昆布売」「鐘の音」「千切木」の三曲という構成。

いままで何度も同会の公演を拝見しているのですが、今回は万作師が人間国宝に認定されてから初めての「万作を観る会」。万作師の品格にふさわしい素晴らしいプログラムです。見る側にとっても何か身の引き締まる思いが致しました。

能「姨捨」の間狂言の語りと同曲の仕舞という企画は、恐らく今後もまず考えられませんから大変貴重な舞台を拝見させていただきました。
今回の舞台の素晴らしいところは、「語り」と「仕舞」の両方が演じられているところです。
これは万作師がよくおっしゃっている「能あっての狂言」という両者の深い関係の表れでしょう。

能を観ていると、どうしても能そのものに注目してしまいがち。間狂言の語りは物語の展開上重要であるにもかかわらず、次の場面へのつなぎのような役割としか考えない観客も多いと思います。

能のシテは現世の人間よりも、この世のものではない霊とか「山姥」のような山の精といった、人間を超越した人物が多く登場します。
そのため狂言師が現世の人間である観客との間に立ち、語りをすることによって、シテと観客との距離感を縮める役割を担っているのです。

この「姨捨」は、「檜垣」「関寺小町」と共に『三老女』として、能では最奥の曲とされています。
シテの演ずる「姨捨」の老女は、仲秋の名月のもとで舞をまう、月の精とでもいった幻想的で品格のある美しい老女です。
老いることは、宇宙や自然といった現実の世界を超越した世界に近づくこと。崇高な美しさを得ることにも等しいといった描かれ方です。

ところが、間狂言の語りでは、一転して残酷で現実的な話が語られます。
間語りの詞章はあまり表面に出ないものですが、今回いただいたパンフレットには詳細に載っておりました。

こうやって文字にしたものを改めて読むと、なんて残酷な物語なのでしょう。
間狂言では、盲目の老女が山に捨てられるに至った悲惨な物語を語るのですが、嫁姑の生々しい確執などを詞章のまま語るだけでは下品になります。
しかし、一方では観客に物語を正確に伝えるという役割も果たさなければなりません。
そこに間狂言の語り手として、最高の芸位に達した者しか表現できない難しさがあるのではないでしょうか。

万作師の穏やかな中にも気迫のこもったお声、そして時折鋭く光る眼光が、「老いること」の尊さと現実の悲惨さの両面を表しているかのようで、閑寂な舞台が師の品格を一層際立たせておりました。

続いての仕舞「姨捨」は野村四郎師。
もうこれはこの曲の仕舞を拝見することが出来ただけで貴重な体験といえるでしょう。
面も衣装もつけない仕舞という形式の中で、シテがいかにこの難しい曲の本質を表現することが出来るのか。また、それを我々観客がどれだけ受け止めることが出来るのか、そう問われているかのような緊張感がございました。

今回の公演は「姨捨」という人間の内面に問いかける演目が中心となっていたためか、狂言の演目は非常にわかりやすい、単純に楽しめるものばかりでした。

まずは「昆布売」。
昆布売は野村遼太くん、大名は石田幸雄師。
遼太くん高校二年生ですか。大きくなりましたね。
解説には新進狂言師とありましたから、もう遼太くんなんて呼べませんね。
若々しい伸びのあるお声で、身のこなしも美しい。
下克上の世相を反映している狂言ですが、その中にも大らかさを感じます。

次に「鐘の音」。
太郎冠者は万作師、主は私が大好きな万之介師。
鐘の音を擬音で表すところが見どころです。
太郎冠者役は若い狂言師が演じることも多いのかもしれませんが、万作師のようなベテランの狂言師が演じるのもまた味わい深いものです。
鐘といえば道成寺。
今年5月、宝生能楽堂で道成寺を観た時の寺男役のアイが野村万作師と野村万之介師でした。
真っ先にそのことを思い浮かべましたが、本当にお二人ともいいコンビです。

最後は「千切木」。
太郎は野村萬斎師です。
もうこれは単純に笑わせていただきました。
萬斎師はかっこいい役をやると決まりすぎてしまうので、私は太郎のような本当は弱虫なのだけれど強がっているだけの情けない男とか、「国盗人」の悪三郎のような悪のヒーロー役はとても魅力的に感じます。

狂言に出てくる女性は「わわしい女」(口やかましい、騒々しい、たくましいなどという意味)が多いのですが、太郎の妻もそのタイプ。
気の強い妻役は高野和憲師が演じられたのですが、萬斎師演ずる格好ばかりつける情けない夫との対比が非常に面白かったです。

妻が夫に対して仕返しに行くようにとしきりに煽るのですが、それは裏返せば夫を愛しているがために何とかしたいという妻の思いなのです。
「あぁ仲の良い夫婦なんだな・・・」
笑いの中にしみじみと深い愛情を感じました。
それにしても、当屋役の深田博治師の「留守っ!」の叫びには大爆笑でございました。

☆――――――――――――――---------‐‐‐

~あらすじ~

◇姨捨(おばすて)
都の男が仲秋の名月を見ようと信濃の姨捨山に赴くと、中年の女に声を掛けられる。女は、ここは昔、老女が捨てられ、「わが心慰めかねつ更科や姨捨山に照る月を見て」と歌を詠んだ所だと明かして消えうせる(中入)。
夜になると、澄みわたる満月の光に照らされて、白髪の老女が姿を現す。老女は、月天子(がつてんし)は勢至菩薩と同体で阿弥陀如来の脇侍であると説き、極楽の有様を描き(<クセ> )、昔を懐かしんで舞を舞うが(<序之舞> )、やがて夜が明け、旅人が帰ったあとも、昔のようにひとり取り残されて立ち尽くす。

―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

◇昆布売(こぶうり)
供を連れず、みずから太刀を持って出かけた大名が、通りかかった若狭の小浜の召しの昆布を売る商人(シテ)に声をかけ、同道を強いる。脅されて無理に太刀まで持たされ、従者扱いされた昆布売りは、やがて我慢ができなくなる。太刀を抜いて逆に大名を脅し、腰の小刀をとりあげて、昆布を売ることを強要する。その売り声も、小歌節や、平家節、浄瑠璃節、踊り節などでやるようにさまざまに注文をつける。大名は、教えられたとおりに懸命にやるが、昆布売りは太刀も小刀も奪って逃げ去る。

◇鐘の音(かねのね)
主人から鎌倉へいって金の値(かねのね)をきいてくるように命じられた太郎冠者(シテ)は、さっそく出かけ、寺々をまわって鐘の特徴を得々と報告すると、主人は怒り出し、冠者を追いだしてしまう。騒ぎを知った仲裁人が間に入って両者の言い分を聞き、冠者が鐘の音を聞きまわる様子を主人に演じてみせることになる。主人の機嫌を直そうと、冠者は謡いながら舞うが、結局主人に叱られる。和泉流では仲裁人が出ない。

◇千切木(ちぎりき)
連歌の会の頭(当番)にあたった男が、太郎冠者に会の仲間たちをよびにいかせる。皆は男の家に集まるが、そこへ仲間外れにされた太郎(シテ)がやってきて、なぜ誘ってくれなかったのかと文句をいう。さらに、花の生け方、掛け物の掛け方などに傍若無人に難癖をつけるので、怒った人々は太郎を打擲して放りだしてしまう。そのことを聞きつけた太郎の妻があわててかけつけ、しぶる太郎にむりやり棒を持たせ仕返しにいかせるが、どの家でも「留守」との返事である。すると、太郎は急に元気になり、棒をふり回して気勢を上げる。

―出典:『狂言ハンドブック』小林 責 監修 油谷光雄 編(三省堂)1995年―

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2007年10月21日 (日)

狂言を観ました

「万作を観る会」に行ってきました。
感想などはまた明日書こうと思います。

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2007年10月20日 (土)

難しかった

今日は上野の文化会館で「モーゼとアロン」を観ました。
う~ん、私にとっては難解でした。
旧約聖書の「出エジプト記」は、昔からよく知っていた話ではあったのですが、ペーター・ムスバッハの演出とうまく結びつかなくて考え込んでしまいました。
ムスバッハさんは脳神経科のお医者さんだったそうで、確かに、あれは大脳から見た世界でしたね。
一見すると『ありゃマトリックスか?』って感じの異様な舞台でしたけど、合唱の美しさは評判通りでした。
そして、危機感をあおるようなオーケストラの響きも美しかった。
恐らくこういう演目は、今後なかなか日本では観る事ができないと思うので、貴重な公演だったと思います。
今日はベルリン国立歌劇場日本公演の楽日だったので、舞台上では鏡割りが行われて華やかでした。
先月から立て続けにオペラを観たのですが、これで当分お休みです。
明日はぜんぜん違う世界、狂言を観に行ってきます。

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2007年10月14日 (日)

今週もワーグナー

Berlin_2 今日はNHKホールでベルリン国立歌劇場、バレンボイムの「トリスタンとイゾルデ」を観ました。(写真は「大入」の看板も出ているNHKホールの正面玄関。確かに満席でした)

このところ2週続けてワーグナーです。
まず目を惹いたのはシンプルだけれど意味深な演出。
パンフレットによると、『古典作品を現代的に読み替え、舞台にアクチュアリティを積極的に盛り込む演出は昨今のドイツのオペラ界の大きな流れである』とありました。
確かにその説明で納得。バイエルン国立歌劇場の時もそんな感じでしたから。

今日の演出も舞台上には巨大な羽をつけた人間(あれは天使か?)が伏せていて、それが場面ごとに回転するだけ。他に舞台上の飾りは無し。
一種の心理劇だからあまりごてごてした飾りは無い方が効果的なのかもしれません。
なにか一枚の絵を眺めているかのよう。シンプルで美しい演出でした。

イゾルデ役のワルトラウト・マイヤー氏はもう14年もイゾルデ役をやっているそうです。
とても「言葉(言語)」を大切にしている方のようで、「私は言語を愛している」「字幕を見ていると感動は半分になってしまうので、事前に筋書きを自宅で読み終えて欲しい」とおっしゃっていたようです。

マイヤーさん、ごめんなさいm(_ _)m字幕をかなり見てしまいました。
でも、マイヤーさんの素晴らしさは十分伝わってきましたからお許しを・・・
あの深くて悲しい愛を表現するには、ただ歌がうまいだけではダメなんですね。
彼女のように言葉への感性というものを常に磨いている方でないと、表面的な美しさで終わってしまうということ。
もちろん、これからは見る側の自分自身の感性を高めなければいけないのでしょうけど。
今回は自分が勉強不足だったので反省しています。

トリスタン役のクリスティアン・フランツ氏は歌は良かったのですが、なにしろルックスがちょっと・・・という感じ。
すごく気になったのはトリスタンだけ衣装がすごく普通というか何というか、他の方とのバランスもあることですし、もうちょっと何とかして欲しかったんですけど・・・

マルケ王役のルネ・パペ氏は素晴らしかったです。重厚な感じですね。私の後ろの席の方が、パペ氏に盛んにブラボーを叫んでいました。
すごくテキトーですがこんな感じです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日の昼ごはんPotomac_2
「牛フィレ肉のビーフピラフ」
グランドプリンスホテル赤坂
ポトマックで食べました。
お肉はとても柔らかいです。お肉にかかっているソースも美味です。
レタスが混ざったピラフはあっさりした味でおいしかったですよ。
お店の方に、「お料理の写真撮っていいですか?」
と許可を得ようとしたら、キョトンとされてしまいました。
そんなこと聞かずにパシャパシャ勝手に撮る人のほうが普通だったから。
でもね、一応マナーとして聞いた方がいいかと思うんですけどね。
あそこは鏡も多いし、フラッシュが反射するのであまりパシャパシャ撮るのもちょっとって感じですから。

Akasaka この国旗どこの国のものかわかりますか?
赤坂見附周辺にあちらこちら掲げられていたのですが、これはナミビアの国旗なんです。
今日、ナミビアのポハンバ大統領が来日されていて17日まで滞在されます。

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2007年10月 8日 (月)

タンホイザー

今日は新国立劇場の今年度のオープニング公演「タンホイザー」に行ってきました。
ここのところ新国立劇場から遠ざかっていたのですが、97年に劇場がオープンしてから早いもので10年経ってしまったんですね。
若杉弘さんが新しく芸術監督に就任されたということもあって期待しています。

オペラでは演出がとても重要な位置を占めていると思うのですが、私はどちらかというとあまり奇をてらったものは好みではありません。
今日の演出はワーグナー演出の正統派といわれるハンス=ペーター・レーマン。
彼の演出はとても良かったと思います。それにバレエや合唱団も良かった。

カメラの映像をバックに映しこんだり、ガラスの円柱のようなセットを使ったりしているところなどはとてもモダンな感じがしますが、基本はあくまで正統派であって、音楽とのバランスが取れていて良かったです。
以前バイエルン国立歌劇場のタンホイザーを観たことがあるのですが、とても現代的な演出だったので、私は今日の演出のほうが好きです。

タンホイザー役のアルベルト・ボンネマは急遽代役に決まった方なので仕方がなかったのかもしれませんが、あまり専門的なことがわからない私が聞いても今ひとつって感じでした。歌い方にメリハリがないというか不安定というか、一人浮いてました。
精神的な愛と官能的な愛の間をさまよい苦悩する男という意味では、ある意味あのフラフラ感が現実的なのかもしれません。

逆に他の出演者は良かったです。
タンホイザー役がちょっと?だったので、ヴォルフラム役のマーティン・ガントナーの良さが際立っていました。
またヴェーヌス役のリンダ・ワトソンはすごくグラマラスなヴェーヌスで素敵でした。

会場で島村元農水相をお見かけしましたが、2年前のバイエルン国立歌劇場のタンホイザー公演でもお見かけしました。ワーグナーがお好きなのでしょうか。政治家にはワーグナー好きが多いかもしれません。

それにしてもタンホイザーの序曲はいつ聴いても素晴らしいです。

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2007年9月 1日 (土)

マタ~リとした休日

昼前に今日オープンしたザ・ペニンシュラ東京に寄ってきました。
昔、香港のペニンシュラに行った時、ホテルオリジナルのチョコレートがおいしかったので、「あるかなぁ…」と思いつつ行きましたらショップにはすでに大勢の人が並んでいました。
ショップ内が混まないように入場制限をかけていたので、20分くらい並んで買うことができました。
チョコレートやケーキの種類もいろいろありますよ。

午後はオーチャードホールでオペラ鑑賞。
チューリッヒ歌劇場公演で、今日の演目は「椿姫」。
椿姫を観るのは久しぶりです。

この演目は、何となくですが、年配の男性に好まれるような気がします。(実際好きだと言っている人を2人程知っているので)
ヴィオレッタの、愛する人のためにやむなく身を引くところや、すべての事情を知ってアルフレードが駆けつけた時には、彼女は死の床に臥しているところ、それでも二人の愛を信じて疑わないところなど、近年なかなかこういった女性に出会わないこともあって、とてもいとおしい気持ちになるんじゃないかと勝手に想像してしまいます。

実際、女性から見てもここまで一途に一人の男を愛せるというのは、なかなかできないことです。
そういう観点から見ると、ヴィオレッタは高級娼婦ではあるのですが、ある意味とても清らかな女性なのではないかと思えるのです。
ジェルモンお父さん役のレオ・ヌッチさん、主役以上の大拍手でした。

会場で出会った人
FNNスーパーニュースの安藤優子さん、木村太郎さんのご両人、めざましどようびの八塩圭子さん、(このオペラ、フジテレビ主催なのです)
あとジャーナリストの江川紹子さんもいらっしゃってました。江川さんはオペラファンで有名で以前にもお見かけしたことがあります。
すごくミーハー的に安藤優子さんを観察してしまったのですが、笑顔の美しい素敵な方でした。

明日も引き続きマタ~リとオペラ鑑賞。
「ばらの騎士」を観ます。

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2007年7月21日 (土)

人間国宝

人間国宝に野村万作さんら7氏=宮薗節浄瑠璃は30年ぶり-文化審答申

文化審議会(石沢良昭会長)は20日、狂言の野村万作さん(76)や人形浄瑠璃文楽太夫の竹本綱大夫さん(75)ら7人を、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定するよう伊吹文明文部科学相に答申した。人間国宝は116人となる。
 男女の心中物などを三味線の伴奏で切々と語る「宮薗節浄瑠璃」は、1977年の四世宮薗千之さんの死去以来、人間国宝がいなかったが、宮薗千碌さん(62)が30年ぶりに認定される。
(Yahoo!ニュース - 時事通信 -7月20日15時30分配信)

万作さん、すごいなぁ、人間国宝になるんですね。
これからも長生きしていただいて、素晴らしい芸を見せてください。

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2007年7月 2日 (月)

食わず嫌いの現代劇

Kuninusubito 能・狂言・オペラは観るのに、なぜか演劇の分野は縁遠かった私ですが、土曜日に野村萬斎さんの「国盗人」を観に世田谷パブリックシアターに行って参りました。
実はこの作品、観にいこうかどうしようかすごく迷ったんです。
実は、思い込みというのは困ったもので、なぜか萬斎さんというとこれまで古典ものしか観たくなかったんです。TVドラマ作品は好きなのに、変ですよね。
普通「萬斎ファンなら当然観に行くだろう」と思いますよね。だから私は真の意味での萬斎ファンでは無いのかも。
でも、今回思い切って行ってよかったです。
萬斎さんは私の長い間の先入観を良い意味で打ち破ってくれて、新鮮な感動を与えてくれました。本当にすごく面白かったし、これまで知らなかった萬斎さんの魅力をいくつも発見することができて行ってよかったです。もちろん、こういった魅力も彼が軸足を狂言という古典の世界にしっかりと置いているからこそ生まれているといって良いでしょう。それは舞台の様々な場面を観ていて確信しました。

舞台評は何回も観に行かれている熱烈な萬斎ファンの方におまかせするとして、私は少しだけ・・・
印象に残った俳優さんは今井朋彦さん。CMなどから受ける印象は、「何か変な人」という感じだったのですが、舞台ではものすごくかっこよかったです。私的にこれからは要チェック、注目したい俳優さんになりました。
それから・・・「マツケンサンバ」ってどなたかが言っていたのですが、「う~ん、このことだったのか・・・」というすごい場面があります。いやすごいですよあれは。ビックリしましたが最高に楽しい場面でもありました。これから観に行かれる方にネタバレしてもまずいのでそれが何かは書きませんが・・・
これからは変な先入観を持たずに、古典以外の作品も観に行こうと思います。

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2007年5月28日 (月)

道成寺のスピード感、スリル感、緊張感

Doujyouji 昨日、宝生能楽堂で道成寺を観ました。
シテは小倉伸二郎師です。

乱拍子は道成寺の石段を登っていく様子を表したものだとされていますが、シテ(白拍子)の足の踏み出し、つま先やかかとの上がり下がりを見ていると、本当に石段を一段一段と登っていく様子に見えます。

そして、小鼓とシテとの息の詰まるような応酬に、観客側は一瞬の瞬きも許されないような緊張感に包まれます。(今回の小鼓は鵜澤洋太郎師)

もうこれ以上の緊張感には耐えられないと思ったあたりで「急の舞」の激しい所作へと入り、シテは烏帽子を扇で飛ばすと鐘に飛び込み、同時に鐘が落ちます。
このあたりのスピード感にあふれる展開は本当にワクワクドキドキします。

私は一瞬の動きも見逃すまいと、舞台を凝視していたのですが、このクライマックスで感動のあまり涙で目がうるうるしてしまい、落ちた鐘がしばらくの間ぼんやりとしか見えませんでした。

シテ、小鼓、鐘後見、すべての人たちのタイミングがぴったり合わないと、このスリルと緊張感あふれる舞台は成り立ちません。

鐘が落ちるタイミングはもちろん大事ですが、「烏帽子はひっかからずにちゃんと飛ばせるのだろうか・・・」とか、「鐘が落ちる時シテが頭を打たないだろうか・・・」とか、いろんなことを心配してしまったのですが、そんな心配は杞憂でした。
すべてがピタリと決まって素晴らしい舞台でした。

しかし道成寺はさすがに重習のなかでも難易度が高い曲だけあります。
シテの体力の消耗は大変だと思いました。
鐘入りまでももちろんですが、あの狭くて暗い鐘の中で、般若(真蛇)の面をつけ、装束を変え、鐘の上がるのを待つまでの時間は大変つらいものだと思います。
「酸素不足で呼吸困難にならないのかしら・・・」などとまたもや心配に・・・

そのつらい時間を経て鐘の中から現れるのが大蛇に変身したシテです。
大蛇は祈り伏せられ、やがて日高川に飛び込むのですが、この飛び込むところがまた重要な場面です。

橋掛かりを揚げ幕めがけて飛び込むのですが、この幕を揚げるタイミングもまたピタリと決まらなければなりません。
もちろん今回はスッキリと決まって素晴らしかったです。
最後の最後まで目が話せない、スリルと緊張感にあふれた素晴らしい舞台でした。

また、うれしかったのは寺男役のアイが野村万作師と野村万之介師だったこと。
お二人ともベテランで安心して観ておりました。

ところで、道成寺でシテが身につける装束に「油形文様縫箔」というものがあります。
油形は大体丸い形をしているのですが、なぜ油形というのかは、
『名称の起こりは定かではないが、天井に油煙がしみつき、それをかたどったものという説があり、油煙のもやもやした感じを表現したものであろうか、油かげろう文様ともいう。』*1
らしいです。確かに怪しげな雰囲気が出ている文様ですね。妖気漂うシテの姿を表すのにふさわしいといえます。

「道成寺」の前に「頼政」「隅田川」の能と仕舞、狂言「酢薑」がありそれぞれが素晴らしかったですね。「隅田川」は何度か見ているのですが、悲しさがこみ上げてきてまたもや涙ぐんでしまいました。
長かったけれど充実した一日でした。

*1檜書店『能を彩る 文様の世界』1997年p.78

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2007年4月 3日 (火)

語・舞・謡

Gozarunoza37no1 週末の「狂言ござる乃座37th」の感想など少し・・・
写真はパンフレットですが、その中心に「語・舞・謡」とあるように、今回の演目「横座」「重喜」「寝音曲」はそれら狂言の特徴を堪能できる演目で、非常にユニークな公演だったと思います。
「語」は能の演目の間狂言で比較的観る機会もあるかと思いますが、「舞」「謡」はどちらかといえば能のイメージが強いですね。もしも狂言が能の付属物としか捉えていなかった方であれば、狂言師が演じる「舞」や「謡」の世界に驚かれたのではないでしょうか。しかも、今回は野村萬斎師が演じられるというのですから、これはファンの方は必見という舞台でした。

「横座」で萬斎師が惟高・惟仁両親王が帝位を争った時の語りをする場面で、舞台上に立って演じている現在の萬斎師が、どうしても「花の乱」の細川勝元が語っている場面と重なってしまって非常に困りました。。。
まぁそれだけお姿が変わっていらっしゃらないということなんでしょう。もちろん、お若い時の顎のシャープなラインと比べて少し丸みがかったかな~とは思いましたが。

若い時の神経が研ぎ澄まされたような緊張感のある演技も好きでしたが、正直力みすぎているんじゃないかと思ったこともありました。今は切れのある演技はそのままで、しかもどこか余裕を感じさせる演技に変化してきたような気が致します。
そして、細川勝元の萬斎師の演技が素晴らしいのも、軸足がしっかり狂言に置かれているからこそできる演技なのだなぁ、と「横座」の語りを聞いて改めて思いました。

それから万之介師のこと。
私、昔から万之介師の演じる「すっぱ(詐欺師)」が大好き。狂言に出てくるすっぱは悪い奴なんですが、お人よしで間抜けでどこか憎めないところがあります。万之介師は何も演じなくても、語らなくても、舞台に立つだけですっぱの存在感が・・・

その人が存在するだけで舞台上に一つの世界が出来上がってしまうというのは稀有なこと。茂山千作師もそういった方ではないかと思います。千作師の「布施無経」や「泣尼」は演者のキャラクターそのもので笑ってしまうのです。今回の万之介師の「牛を拾った何某」という役も適役でした。

「重喜」は何と言っても萬斎師のご子息祐基君でしょう。剃刀の手合わせの仕草など何とも可愛い。舞台上で見つめる万作師のお気持ちはどんなだったでしょう。
万作師は著書の中で『例えば、おじいさんが孫を教えるとかわいらしさが表に出てくるが、親が子を教える場合は、早くうまくさせたい、早く成長させたいという欲が先に出るから、ついつい大人に似たようなうまい芸をさせてしまうことがある。そうすると先へ行っての進歩がとまってしまう。』と語っておられます。そのため、子供は子供らしく天真爛漫に、言葉を明晰にかわいらしく発声しなくてはいけないという信念でやってこられたそうです。

こうして代々受け継がれていく野村家の教えを、私たちは観客として演者の成長を見る楽しみとして分かち合えるような気が致します。
萬斎師が祖父六世万蔵師との思い出の曲であったように、ずっと遠い将来、祐基君の思い出の曲となることでしょう。

「寝音曲」は萬斎師の「舞」と「謡」が堪能できました。時々「彼が能楽師であったらどんな感じだろうか」と思うことがありますが、この曲でほぼ実現したかのように感じました。厳密には能の舞は地謡があるので謡いながら舞うという感じではなくて、もっと内面的なものを感じさせられるのですが・・・

今回の太郎冠者の小舞謡は特別バージョンで「咸陽宮琴ノ段」でした。「花の春の琴曲は~」で始まるので、満開の桜の季節に合わせてくれたのかもしれません。
まるでお花見の宴で萬斎師の朗々とした謡を聞いている気分、贅沢な週末を過ごさせて頂きました。

☆――――――――――――――――---------‐‐‐

<横座>
◇あらすじ
耕作人が先ごろ手に入れた牛を引き、牛博労に目利きを頼みにいく途中、その牛博労(シテ)がいなくなった秘蔵の牛を探しにきたのに出会う。牛博労はそれは自分の牛だと主張し、生まれるとすぐ座敷の上座にすえ、横座と名づけたのでよべば返事をするのが証拠だという。
耕作人は、よんで答えれば返すが、鳴かないときは牛博労を家来にすると条件をだし、よび声は三声と決める。ところが、二声までは答えない。牛博労は必死になり、昔、文徳天皇崩御ののち、惟高・惟仁両親王が帝位を争い、10番の相撲で定めることになったとき、比叡山の慧亮和尚が惟仁の勝利を懸命に祈ると、絵に描いた西方大威徳明王の乗った水牛が三度までほえ、ついに勝ちを収めた故事を語って、さて「横座よ」とよぶと「モウ」と答える。牛博労は喜び牛を引いて入る。

<重喜>
◇あらすじ
男が寺を訪れ、僧と新発意(しんぼち)(仏門に入って間のない者)の重喜(シテ)を食事に招きたいと申し出る。僧はさっそく出かけようとするが、あいにく頭を剃る者がいない。しかたなく重喜にまかせる。慣れない仕事でどこか危なげである。「三尺下がって、師の影を踏まず」と教えられた重喜は長い棒の先に剃刀をつけ、長刀のように扱って剃りはじめる。しかし、ついには住持の鼻を剃り落としてしまう。

<寝音曲>
◇あらすじ
主人に、自分の前で謡を歌うように命じられた太郎冠者(シテ)は、今後たびたび謡わされては困ると考え、酒を飲んだうえに妻の膝枕でなければ謡えないと嘘をつく。主人は酒を飲ませ、自分の膝を貸してやる。冠者は謡いはじめるが、寝ているときは謡えるのに起きると声が出なくなるようなふりをする。調子にのった冠者はとりちがえ、膝枕のときに声を出さず、起こされたときに声を出してしまう。挙句の果てには歌いながら舞いだし、すっかり嘘がばれるが、逃げる冠者を主人は許し、もう一曲謡うよう声をかける。和泉流では主人が冠者をしかりながら追いかける。

出典
小林 責 監修 油谷光雄 編『狂言ハンドブック』三省堂、1995年、

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2007年3月12日 (月)

魔王と変化の鳥

土曜日に国立能楽堂で「松山天狗」という能を観ました。
現在では金剛流のみに残る珍しい能であるため、以前から観たいと思っていたのですがなかなか観る機会が訪れず、今回非常に期待しておりました。
傷心の崇徳上皇の悲しみ、怒り、恨みの場から一転して天狗たちの豪快、華麗な舞の世界へ移り変わるダイナミックな展開は観る者を飽きさせず、久しぶりに能の世界を堪能致しました。

上田秋成の「雨月物語」の中に「白峰」という短編がありますが、これは「松山天狗」等の影響をうけて書かれたのであろうとされています。
「白峰」は「雨月物語」の中でも非常に好きな話の一つで、何度か読んではいたのですが、今回の演能後、改めて読み直してみました。

保元の乱における崇徳上皇の恨みは尽きませんでしたが、それでも自分はもう都へは帰れる機会はない、それならば来世の安楽のためにと思い大乗経五部(法華経・華厳経・大集経・般若経・涅槃経)を写経し「都へ納めさせて欲しい」と弟の仁和寺上首覚性法新親王のもとへ、経に添えてつぎの和歌を送ります。

 浜千鳥跡はみやこにかよへども
    身は松山に音をのみぞ鳴く

ところが、少納言信西が「これは主上をのろい、天下をのろう心で送られたのかもしれない」と邪推したため、後白河院から送り返されてしまいます。
『自分も悪かった、それでも悔い改め罪ほろぼしとして心を込めて写経したのだ、それを突き返すとは・・・』
その時の崇徳上皇の悲しみと怒りの心中いかばかりかと察します。

怒り狂う上皇の御霊を目の前にして、西行法師が詠んだのが次の和歌です。

 よしや君 昔の玉の床とても
    かからんのちは 何にかはせん

死んでしまえば、天皇であっても人はみな同じです。
皇位に執着することなど忘れてお心を鎮めてください、ということでしょうか。
非常に味わい深い歌で、さすがの上皇も心を動かされ天狗たちと共に夜明けの虚空に飛び去っていきます。

この能はもちろんシテの崇徳上皇が主役なのですが、「松山天狗」という曲名にも現れているように、もう一方の主役は「天狗」です。
後場で華麗な舞を披露する天狗たちの中に「相模坊」という天狗がいます。
この天狗は白峯相模坊といって、崇徳上皇が讃岐の国で激しい恨みを抱いたまま亡くなられた時、上皇をなぐさめる為に相模の大山から白峯に移って来た天狗です。

話は飛びますが、日本五大天狗 とは白峰山の相模坊、大峰山の前鬼、鞍馬山の僧正坊 、五剣山の中将坊、象頭山の金剛坊のことだそうです。
天狗って一種の怪物ですが、どこか愛嬌があると思いませんか?
羽団扇を使いながら舞う天狗たちの姿は豪快そのもの。
怨霊となった崇徳上皇の御霊もさぞかし慰められたことでしょう。
しばしの間、遠い保元の乱の時代へ思いをはせました。

~「松山天狗」のあらすじ~

西行が、讃岐国松山に悲憤憂悶の生涯を閉じた崇徳院の廟に詣でるべく、配所を訪れ、行き合いの老人に白峰の陵に案内される。
老人は、人も通わぬ鄙の住いで、新院が存命中は逆鱗しきりであり、叡慮をなぐさめるものは白峰の相模坊(天狗)と、従う小天狗どもばかりであったことを語り、姿を消した(中入り)。
その夜の西行の夢に新院が現れ、都をしのんで舞の袖を返す(早舞)うち、志を得なかった悲憤がつのり、怒りを表すや、山風荒く、雷鳴しきりのうちに天狗どもが飛翔し、叡慮をなぐさめる(舞働)のだった。
―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

舞台となった香川県坂出市のHPに非常にわかりやすいあらすじが掲載されていますのでこちらも御覧下さい。
http://www.city.sakaide.kagawa.jp/kankou/minwa/tengu3.html

白峰寺の紹介もあります。
http://www.city.sakaide.kagawa.jp/kankou/local/siromineji.html

「雨月物語 角川文庫」(現代語訳つき)がおすすめです。昨年改訂版が発売されたようです。
自宅には1959年刊行版があるのですが、改訂版も買ってみたいと思います。

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2006年11月27日 (月)

狐のDNA

Mansai3 一昨日、野村萬斎演ずる「釣狐」を国立能楽堂で観ました。
ご存知の方も多いと思いますが、「釣狐」は狂言の大曲です。狂言師は「猿に始まり、狐に終わる」と言われますが、これは「靱猿」の小猿で初舞台を踏み、「釣狐」の老狐を演じて初めて一人前となることを意味しています。
最近、なかなか能楽堂に行く機会がなかったのですが、今回萬斎師が14年ぶりに「釣狐」を演じるということで久しぶりに行って参りました。
罠だとわかっていても、餌の若鼠の油揚げに未練たっぷりな老狐(萬斎師)の演技は大変印象深かったと共に、いろいろなことを考えさせられる場面でもありました。
先日、野生動物との遭遇について書きましたが、動物が人間を襲ったり、田畑を荒らしたりすることには彼らなりの理由があるのに、いつも人間が被害者だという視点で捉えられてしまいます。「釣狐」では逆に狐側の視点で人間(猟師)と向き合うことで、人間の恐ろしさが描かれていたようにも思えます。また人間も、いつも若鼠の油揚げ(欲望の象徴)の誘惑に晒されている情けない動物だと言えるでしょう。
一族の狐を根絶やしにされるほどの仕打ちを受けつつ、それでも若鼠の油揚げをあきらめきれない苦悩、老狐ののた打ち回るような心の葛藤。これを舞台上で演じるのですから狂言師は緊張感の連続です。舞台上での激しい闘いを見ているような気分でした。
私は正面のかなり前の方で観ていたのですが、萬斎師の狐声の発声、身体の切れの良さ、気迫に圧倒され、観終わった時には満足感と共に、知らず知らずのうちに力んで観ていたためか、何ともいえない心地良い脱力感を感じました。
萬斎師の父万作師はこの「釣狐」を得意曲としていますが、大変な体力を要する作品であるため、若い頃には毎朝縄跳びをし、階段を駆け上がる訓練をしていたとのこと。万作師の「釣狐」に対する思い入れについては、ご自身の著書「太郎冠者を生きる」(白水ブックス)に詳しく書かれています。
「狐」のDNAを受け継いでいる萬斎師の将来が楽しみです。

~「釣狐」のあらすじ~
一族の狐がつぎつぎと猟師に捕らえられ、今やわが身もねらわれている老狐が、猟師の伯父である白蔵主という僧に化けて、猟師の家を訪れる。白蔵主は妖狐玉藻前(たまものまえ)の伝説を物語り、狐の執心の恐ろしさを強調し、猟師に罠(わな)を捨てさせることに成功する。喜んだ白蔵主は小歌まじりに帰る道中、先刻猟師に捨てさせた罠を発見する。罠には大好物の若ねずみの油揚げが餌についている。飛びついて食らいたい衝動を抑え、化身の扮装を脱いで身軽になってから食おうとその場を立ち去る(中入)。一方、伯父の白蔵主のようすに不審を覚えた猟師は、罠が荒らされているのを見て狐の仕業とわかり、罠をかけ直して待機する。やがて正体を現した老狐がやってきて、餌をつつきまわすうち罠にかかるが、必死にはずして逃げて行く。
―出典:「能・狂言辞典」編集委員・・・西野春雄+羽田昶(平凡社)1992年―

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2006年10月 4日 (水)

朝日とオペラ

朝日「週刊新潮」広告拒否「詐欺」見出しに「名誉毀損」

 朝日新聞は4日付朝刊で、「週刊新潮に本社抗議」との見出しでベタ記事を掲載した。4日発売の「週刊新潮」に掲載された朝日新聞主催のオペラ公演に関する記事に「詐欺!悪徳商法!」の見出しがついていることが「本社の名誉・信用を著しく毀損(きそん)する」として週刊新潮に抗議し、同誌の広告掲載を見合わせたというのだ。
 「ファンを激怒させた『朝日新聞主催』ローマ歌劇場公演」と題された同誌の特集記事は、9月23日から10月1日まで滋賀と東京で行われたローマ歌劇場のオペラ公演で、“目玉商品”だった指揮者やテノール歌手らが公演当日に突如「健康上の理由」で代役に交代したが、実は当人は元気で、最初から出演する契約もなく、海外で他の公演に出演などしていたという内容。
 このため、5万円前後もする高額チケットを購入したファンらから「詐欺だ」といった抗議の声があがっているという。
 同誌の取材に朝日新聞側は、事前に「劇場側の都合」で代役となる可能性があったが、主催者側の判断で「ギリギリの告知になってしまった」などと回答している。
 ちなみに、主催者側のホームページに掲示されていた交代の告知には、当初「健康上の理由」とあったが、いつの間にか、ただの「都合により」と修正されていた。

ZAKZAK 2006/10/04
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_10/t2006100420.html
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これは主催者が朝日新聞で、招聘元がアップフロントプランニングという構図なんですね。朝日としてはアップフロント側に責任があると主張したいのでしょうけれど、オペラの主催者としては、招聘元や歌劇場がどれくらい信用のおける組織なのか十分に調査する必要があると思います。
世の中には「天下の朝日新聞が主催しているのだから信用できる」と思われる方も多いのですから。
私もこの公演のチラシは以前何かのオペラを観に行った時にもらいました。
オペラのチラシってすごく豪華なイメージの写真が使われていて、何か見ただけですご~いと思ってしまうのですが、私は習慣的に必ず主催者の名前を見ます。アカピと印字してあったらその時点でパスします。
いままで3回ほどアカピ主催のオペラに行ったことがあるのですが、その中の某公演がチケットがバカ高かった割に内容が今一つで、それ以来アカピ系のものには行っていません。
先月、フィレンツェ歌劇場公演に行った時、「パレルモ・マッシモ劇場 日本公演2007」というチラシをもらって一瞬興味が湧きましたが、東京公演の主催「朝日新聞社・TBS・Bunkamura」という文字を見た瞬間、怪しさ爆発、即刻捨ててしまいますた。いやパレルモ・マッシモ劇場には何の恨みもないのですが、朝日新聞社・TBSという文字にものすごく拒絶反応を起こしてしまったのです。

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